王命で好きだった人の弟に嫁ぐことになった
右足骨折の騎士を治して、テントだらけの周りを見渡す。急拵えの野営の診療所は治療後の患者でいっぱいだった。
「これで全員…!」
「ようやく…終わった…!」
「ギリギリ足りて良かったぁ」
「朝からいたのに、夕焼け見えるんだけど。嘘ぉ…」
治癒魔法を見込んで集められた仲間達が安堵の溜息をついた。空気はすっかり弛緩し、楽しげに話す人もいた。
「すまん、怪我人だ!重症度Cが1人、Bが1人、Aが多数!」
一声で一気に緊張した空気の中、重傷の騎士が担架で運ばれてくる。
「さっきの便で魔物は全部倒したって言ってたじゃない!」
「撤収中に崩落事故が起きて、防御が間に合わなかった。撤収は完了したから今度こそ最後だ」
混乱の中、人手の割り当てが進められていく。
「誰かCの魔力いける人は!?」
「Bならなんとか…」
同様の声がいくつか上がる。最も重傷の者の治療は誰も出来なさそうだった。
「回復薬は!?」
「さっきなくなりました…」
魔力が枯渇すれば治療する側が死に至る。治療出来る人間がいないのかと皆が真っ青になる中、私はそっと手を上げた。
「私、まだもうちょっと余裕あるのでやります」
「マリーベル…貴女ももうフラフラじゃない…!」
「大丈夫ですよ。すみませーん、あちらに運んでください」
にっこり笑ってごまかして、担架を持つ人に指示を出す。
「終わるまでこのテントに入らないでくださいね」
人払いして、意識のない患者に手をかざす。集中して魔力を注いで、負傷した内臓を優先して治療する。出血を止め、命に関わったり後遺症を残すような傷は全て治療した所で目がチカチカして、頭がぼうっとしてきた。
(枯渇のサイン…結構ギリギリだけれど足りて良かった。この患者さんが気に病まないといいな)
小さな傷もどんどん治療していく。元々悲観していた上、今日のことで罪が明らかになるだろう。回復薬がない中自分の限界を見誤って人を助けて死ぬというのは私にとって理想的だった。
足の力も入らなくなってきたので、床にそっと横になると意識が遠のいていった。しばらくしてなんだかうるさくなって、よく知った低い声で「ごめん」と聞こえた気がした。
***
13歳になったヒューバートは、第三王子として初めて父親から裁定を委託され緊張していた。とはいえほぼ父と相談して決めた事だが。
後ろに控える美形の黒髪碧眼の護衛をチラリと見る。実の兄より兄のように慕ってきたこの人が喜んでくれるといい。
一呼吸して、意識して威厳のある声を出す。
「入れ」
部屋に、魔力封じの手枷をはめた令嬢がやってきた。侍女も下げて、護衛1人と令嬢のみ残して話を始める。
「マリーベル・グローヴズ伯爵令嬢。貴女に関する処遇について私は陛下に一任された。貴女は、魔力量について虚偽の申告をした。違いないか?」
「はい、間違いございません」
「魔力量の虚偽申告は罪だ。しかしながらその発覚は、魔獣の大量発生において重症度の高い患者をより多く助けたという人道的行為に依った。今回の魔獣の発生は50年に一度の大規模だったにも関わらず、死者も重傷者も出なかったという事実にも大きく関与していると考えられる。
…この功績を考慮し無罪とする。が、今一度国への忠誠を見せ、王命に従え」
「はい。謹んで拝命いたします」
心の内で事実確認と処罰の通達にチェックを入れる。次は処罰の内容説明である。
「グローヴズ伯爵令嬢はオズボーン公爵家当主の―――」
マリーベルの瞳が僅かに希望に輝く。
「―――弟、レイモンドに嫁げ」
貴族として取り繕うべきマリーベルの顔は血の気が引き、絶望しかないような表情で必死に涙を堪えている。何故だ。
ヒューバートはあまりに予想外の反応に内心慌てる。これは予定していた残りの王命を告げたらマズい気がする。
「…他の王命については追って連絡する。それまで1週間程度王宮に滞在するといい。手枷は外してよい。部屋で休め」
「…かしこまりました。陛下と殿下の温情に感謝いたします」
声が震えないよう腹から出したであろう声で退出の挨拶をし、マリーベルは去っていった。
***
ヒューバートは後ろにいるレイモンドに問う。
「私の裁定はどうだったんだろうか?」
「殿下や陛下の御心配りの行き届いた素晴らしい物だと思われます」
こちらも見たことのない辛そうな声と表情である。余計訳が分からない。つい最近まで彼女を切なそうに見ていたのに…。何だか途轍もなくやらかした気がした。
「…其方の思う心配りというのはどういうものかな?」
「では畏れ多いことながら。魔力量が多いと露見したマリーベル嬢は望まぬ縁談を押し付けられる可能性が高く、また洗脳して攻撃魔法を学ばせれば大きな脅威となりかねません。側近に縁付かせることでその力をある程度王家の下で制御できましょう。しかも、公爵令息の正妻なので一見良縁です。婚姻を勝手に決められた点は罰として機能しながら、功績に応じた褒賞といえます」
ヒューバートはふむふむと頷く。レイモンドは続けた。
「しかし本人にとっては経歴に傷がつき、場合によっては自死を選び…」
「ちょっと待って嘘でしょ!?」
ヒューバートは王族としての態度をかなぐり捨てた。
「…そうなれば公爵家がその力を使用する事はかないません。自死しなくても経歴に問題のある正妻を迎えた分で側近として重用している分と釣り合いが取れるでしょう」
真っ青になったヒューバートは侍女を呼び、マリーベルに自傷の危険がある為目を離さぬよう言いつけた。
侍女が去り、ヒューバートは口を開いた。
「いつもの話し方で頼むよ。何故マリーベル嬢がそんな事になるの?そもそも女の子はほぼ多少なりともやってる事だし大した罪ではないじゃないか。今後も災害時の人道的行為なら他の人もどんどんやってほしいのに…」
魔力量の把握は元々軍事力の把握の意味が強かった。騎士や文官であれば業務に必須なため虚偽申告はまずないが、治癒魔法を学ぶ事の多い令嬢は魔力が多ければ年老いた貴族が側に置きたがる。本人が人を傷つける覚悟がなければ攻撃魔法は発動しない為取り締まりは緩く、もし発覚しても罰金刑ということもあり、無理な縁談を断る力がない下位貴族ではおそらく過少報告が横行している。今回裁定が必要になったのは、マリーベルの魔力量が突出して多すぎて、あまりにも目立ってしまったからだった。
「罪を犯したという事は十分汚点で、貴族にとって致命的だ。たとえ無罪となっても、実質的な罰も下されているからな。
それに先の事が考えられない下位貴族の令嬢なら、似たような事をすれば王に格上と縁談を結んでもらえると思うかもしれないが…普通なら自分に汚点がついて、陛下に睨まれた嫁ぎ先とともに落ち目になっていく正妻か、お気に入りの貴族の妾かの2択は嫌だろう。前者なら嫁ぎ先からしても得になる縁を結ぶはずが、得るものもなく、しかも家の傷になる嫁だ。いい扱いはされないだろう」
ヒューバートは言い返した。
「でも内緒だったけど、今回の慰労パーティーで父上がお褒めの言葉を言い渡す予定だから、彼女の傷にはならないはずだよ!」
レイモンドは溜息を吐いて言った。
「お言葉は本当に陛下が彼女1人に対して言葉を言い渡すと仰ったのか?全体に対して言葉を述べるだけなら、彼女の名誉は回復しないぞ」
ヒューバートはハッとして俯き、父親に騙されたことにようやく気が付いたようだった。やがて前を向いた。
「うん…。王族として、彼女の名誉を回復させると約束するよ」
ヒューバートの言葉にレイモンドは驚く。
「いいのか?陛下の許可は…」
「父上の監督下とはいえ、僕はこの裁定を委託されたんだよ、レイ。裁量は僕にある。
そもそも、父上がまだレイを遠ざけようとしていると分からずに、その提案を鵜呑みにした僕のミスでもある。母の遺言で多少はまともになったと信じた僕が馬鹿だった」
王は、兄弟の中で一番妻に似たヒューバートを、妻とともに溺愛していた。王が手元に置いておきたくて、何も学ばせてもらえなかったヒューバートに多くの事を教えたのはレイモンドをはじめとする王妃に選ばれた側近達だった。その結果、当然のようにヒューバートに懐かれたレイモンドに王は嫉妬した。
5年前王妃が亡くなった後、遺言には「ヒューバートを手放すように」とあったが、王は聞く気がなかったようだ。それどころかヒューバートに髪を切ることを禁止して、去勢しようとしていた。それらを本人に知られないうちになんとか阻止したのもレイモンドである。当時は父親に狙われているなど幼い子に教えないで済むなら…と判断したが、今は危機感を持つ方が重要と考え、レイモンドはヒューバートに教えた。
恐らく王は、ヒューバートから自らの手で側近を遠ざけさせ、大きな失敗をした所で幽閉すればずっと手元に置けると考えているのだろう。
父に狙われている話を聞いて血の気が引きつつも、それは後で考える事にしたらしく、ヒューバートは話題を戻した。
「という事は王家自ら彼女の名誉を回復すればレイにとっても汚点にならないし、普通の縁談だよね?レイは嬉しくない?心変わりした?」
「よく覚えてるな、その噂はずっと前じゃなかったか?…俺は嬉しいが、彼女にとっては最も避けたいものだっただろうな、好きな人の弟だから」
ヒューバートは首を傾げた。
「確かにマリーベル嬢はレイのお兄さんのステファンのファンクラブ会長だったらしいけど、ステファンの婚約者も公認するほど節度を保った活動をしていたって聞いたよ。婚約者の存在を嫌がらないなら、憧れの人をずっと近くで見てられるのは幸せではないの?」
「マリーベル嬢は兄上の事が本気で好きだったんだ。でも婚約者から奪う気なんてないから、ただ憧れてるだけのフリして会長なんかに祭り上げられてたんだよ。卒業パーティーも、卒業後の兄上が出席しそうな夜会も婚約者を伴うものは避けていたはずだ。だが、来月の結婚式は幸せな2人が親族席からよく見えるだろうな。
慕う人の義妹となることで、これからずっと他の女性と仲睦まじい様子を近くで見ざるを得ない状況になる。夫婦仲が冷めようとも一晩の対象にならない…なったら余計地獄だが」
ヒューバートの顔は青みが増して言葉も出ない。レイモンドは更に問うた。
「…なぁヒュー、 もしかして王命予定の内容はもう少し続きがあったんじゃないのか?」
「最初は…その…他の貴族があの子を狙うかもって父上が言ったから…数日中には簡易に挙式してもらって、慰労パーティーぐらいまで王宮で保護しようかと…。いや、まだ命じてないしこれからも命じない!」
レイモンドの呆れた顔にヒューバートは慌てて弁解したが、レイモンドの表情は変わらない。
「彼女の安全も大事だが、そこまでの必要があるかな。俺も義姉上の準備を見て知った所はあるんだが、結婚式に理想がある女性は多いだろう。王女殿下の結婚の時はどうだった?」
ヒューバートはハッとした。レイモンドが続ける。
「簡易というより、…親族すら呼ばず、友人もいない。披露パーティーも無いもんな。呼びたい人は呼べず、夢は叶えられず、隣は望んでいない人。後々、隠れるように結婚したなんて何と噂されるか。立派な罰で嫌がらせだな」
ヒューバートは泣き顔で呟いた。
「ごめん、僕…」
「謝るぐらいなら状況の改善に協力してくれないか?」
「する!!!でも王命は取り消せないけど…」
「付け足すのは可能だろ?って言っても俺が褒賞として望んだから婚姻を命じた、という形にするだけだ」
思わずヒューバートは疑問を口にした。
「それで何が変わるの…?」
レイモンドは首を横に振った。
「全く違う。俺への嫌がらせではなく、俺の褒美だと知らしめる事は彼女の立ち位置が大きく変わる。来たのは俺のせいだという点では義姉上と母には多少恨まれるかもしれないが、不満の風避けになる。兄上を避けるとしても、マリーベルの未練というより俺の嫉妬を前に出した方が風当たりは少ないし、他の所でも守ってやれる」
レイモンドはニコリと笑って続けた。
「それに、さっき言ったのは全部マリーベル嬢が兄上を慕い続け体面も考えないで行動すると仮定した時の話だ。実際には彼女はずっと賢いから、そこまでにはならないだろうよ。最悪のパターンを示せば多少は勉強になったろう?」
ホッとしたヒューバートは、しかし自らを戒めた。
「次はまず事前の打診から始める事にする…」
「あぁ。あといくつか相談したい事があるんだが…」
慌ててヒューバートは頷き、話し合いを始めた。
***
レイモンドは、最後にヒューバートにマリーベルへの自由な面会の許可をもらって面前を辞した。
ヒューバートにはああ言ったが、マリーベルの内心の考察にはかなり自信がある。伊達に長年片想いで見つめていたわけじゃない。もしも、と考えた事は何度もある。
ノックして扉を開けると、憔悴したマリーベルがいた。
「何よ、嗤いにいらしたの?…あぁ、貴方も結婚相手に不満たらったらでしょうけれど、王命だから諦めてくださいませね」
「…謝りに来た」
「…は?」
レイモンドは怪訝な顔をしたマリーベルの前で片膝を立てて跪き、彼女の手を取りヘーゼル色の瞳をじっと見つめ、緊張して息を吸った。
「魔力の枯渇しそうな貴女に魔力を移して生かしたのは俺だ。ヒューバート王子殿下がこの王命を出したのも、俺が貴女の事を好きだと知っていたからだ」
「…は?……え?」
マリーベルはすっかり固まってしまっている。
「つまり貴女は俺の褒賞として差し出されたわけだ。無罪にはなったものの、生きて膨大な魔力を持つ故に色々なところから狙われて、望みもしない結婚をする羽目になったのは全て俺のせいだ。すまない。
兄上を好きな事も含めて、貴女の全てを愛している。夫として、何者からも守ると誓おう」
「え……ぇ…」
マリーベルは口を半開きにして彫像と化したように動かない。いや、顔は赤くなってきた。よく見るとぷるぷる震えている。
「…可愛い。好きだ。触りたい」
「……え?…だめ!」
「チッ」
「舌打ち!?」
なんだこんなに簡単だったのか。予想外にこちらを意識して見てくれている事に歓喜する。喧嘩を売ってでも話したかった人が。
そうこうするうちに、マリーベルが多少動けるようになってきた。とはいえ混乱の最中である事は変わりないようだが。
「貴方あまりにも性格がお変わりになっているわ!口を開けば慇懃無礼で皮肉だらけの貴方はどこへ行ったの!?」
「顔見知り程度から愛しい婚約者になれたんだ、態度を変えるのも当然だろう?」
「ふぁああ!」
彼女の手の甲に口づけると、令嬢にあるまじき声が出た。それも可愛らしい。
「もうどんなに嫌われても離してやれないが、貴女に好ましく思ってもらえるように精一杯の努力をしよう」
「こっ…この人は誰!?私の知っているレイモンド・オズボーン様ではないわ!」
「正真正銘、同一人物だ。それよりレイと呼んでくれないか?」
「れ、レイ…?」
「あぁ、早速呼んでくれて嬉しいよ。俺もマリーと呼んでも?」
マリーベルは明らかに聞き返そうとして復唱しただけだったが、にっこり笑っておく。ついでに長椅子の隣に座るとずざざざっとマリーベルは端に離れた。
「おっ…断りですわ!!」
「じゃあベルって呼ぶね。あぁベル、明日は慰労パーティーの為のドレスを選んで合わせておいて。パーティーは3日後だから何とか間に合うと思う。王族からお褒めの言葉を賜るらしいから、礼儀作法の復習も忘れずに」
「ほへ?」
「ベルって許容量を超えたら面白い声が出るんだな。とても可愛らしいけれど、俺の前だけにしてほしい。あと、慰労パーティーには兄上は来ないから安心してくれ」
兄上の話になった途端安堵したような寂しいような複雑な表情を見せた。妬けるが、今は仕方ない。俺が入り込む余地はあると分かっただけで収穫だ。
マリーベルの頬っぺたをツンツンつつくと、不審な顔で見られた。
「ここに明日口づけするから」
マリーベルは顔を真っ赤にした。心底嫌がられているというわけではなさそうだ。更に近付いてそっと耳元で囁いた。
「俺の事だけ考えていて。好きだよ、ベル」
***
私を混乱の渦に叩き込んで沈めた張本人が上機嫌で去って数分後。
「…ぎゃあああ!」
「ひぃっ!!」
固まっていた私がいきなり奇声を発したせいで、周りにいた侍女や護衛を驚かせてしまった。気まずいながらもお互いに謝る。お茶のお代わりをもらって、ようやく落ち着いた。
「…あの人あんな人だったのかしら…?」
私の独り言に侍女も護衛も全力で首を横に振っている。彼らはヒューバート王子殿下付きで監視も兼ねている。普段のレイモンドも見ているはずだ。と思ったら、やはり今までは言い寄る女性は皆丁寧だが冷たく突き放されていた、と侍女の1人がそっと教えてくれた。私が見ていたのと概ね同じだったらしい。
礼儀作法の本を借りて復習してその日を過ごし、次の日の午前中は群青色のドレスをいくつか持ってきてもらって、そのうちの1着を選んでサイズを合わせた。人に会わないよう配慮したのか、針子に会う事なく侍女が全て済ませてくれた。
結局勉強中も服選びの間も、レイモンドが言った事ばかり考えていた。考えている事でレイモンドの思惑通りに動かされているのが悔しく、睡眠時間まで削られるのは悔しすぎて無理矢理寝たが。
***
「やぁベル、昨日ぶりだな。会いたかった」
午後になってレイモンドがやって来た。腹が立つほど笑顔だ。
「ぐぁっ…。こちらは顔も見たくございませんわ!」
レイモンドは特に傷ついた様子もなく人払いする。…あの扉は本当に開いているのか?
「貴方に砂糖を固めて喉に押し込むような口撃が出来ると思いませんでしたわ…よくもまぁ恥ずかしげもなく…」
「攻撃のつもりは無いし、多少恥ずかしいとは思ってるんだが。それ以上に可愛いベルが見たくて」
「ふぉおお…」
ファンクラブ会長なぞやっていれば男性が近づくはずもなく、元から婚約者がいた訳でもないマリーベルは当然こんな台詞に慣れていない。苦笑するその顔を見られずに目を逸らす。
「もうそろそろ座っていただけませんこと?」
「んー?部屋の主よりいい椅子に座る訳にもなぁ?」
私は1人掛けの椅子に座っている。昨日のようにはなるまいとフフン、と勝ち誇ってみせると、彼は苦笑しながら近づいてきた。
「なんだかしてやったり、といった顔だが、俺は騎士だからな、」
ティーカップを持った私の背中と膝裏に素早く手を入れられそっと抱っこされた。頭の中が真っ白になっている間に、気がつけば長椅子に彼が座って、私は彼の膝の上にいた。
「いくらでも強硬手段に出られるんだが」
男性とここまで密着している事が恥ずかしくて動けない。心拍数が上がって慌てているその間に頬に柔らかいものがくっつく。
「昨日の約束だったからな」
これ以上はないほど顔が熱い。間近で群青色の瞳がよく見える。
「ひぃ、きょ、許可した覚えはなくてよ!」
「すまない、許可が必要とは知らなかった」
「いけしゃあしゃあと!」
一寸たりとも済まないとは思っていない笑顔だ。と思ったら、しょぼくれた表情になった。
「…じゃあ吐き気がして、こそぎ落としたいぐらい嫌だったか?」
「いやそこまでは…思ってないけど…」
「では少しだけでも許可をくれないか?」
懇願してくる目になぜか罪悪感を煽られる。
「えっとそれは…」
「この先夫になるのだから、妻に触れられないのは困るんだが…」
「うぅ…じゃあ…少しだけなら?でも、」
「ありがとう!」
ここまで、と線引きしようとする言葉を遮られた上、再び頬に口づけられる。その後も何度もこめかみや耳にまで口づけられる。
「…どうだ?嫌悪感を覚えるか?」
私を観察する中に隠しきれない不安が見えて、思わずふふっと笑ってしまった。
「不安になるぐらいなら、こんなに強引にしなければいいのに」
笑われて不機嫌になったレイモンドが、小さな声で呟いた。
「俺もこんなに急ぎたくはないんだが」
その意味を考える前に、自分の下唇をレイモンドの親指がそっとなぞった。
「ここ、唇で触れたい」
「なぁあっ!?ちょっ、無理っ、ですわ!」
「いつならいいの?」
耳元で囁かれて、慣れたと思った距離に再び顔が火照る。気がつけばしっかり抱きしめられて、また山のような口付けが降ってくる。その間で小声で囁かれた。
「兄上の事を忘れたいってベルも思ってるんだろう?」
恋心を指摘された恥ずかしさで固まった。
「忘れさせてみせるよ。だからお願いがあるんだ…」
続く言葉にマリーベルは少し驚いたが、何だか目の前の男が可愛らしく思えたのだった。もっとも、そう思えたのも一瞬だったが。
***
翌日、パーティーを明日に控えた早朝、私は茶髪のカツラを被り、侍女のお仕着せを着て、従僕の格好をしたレイモンドの後ろについて王宮の廊下を歩いていた。本来居るはずの部屋では、私の髪の色のカツラをつけた侍女が身代わりをしてくれている。
裏口から出て荷馬車に乗り、一息つく。
「なんだか変装って楽しいわね。表情が崩れそうで…淑女教育にここまで感謝したのは初めてだわ」
「楽しい体験が出来たようで何よりだ。今からハイランド公爵家の別邸に行くよ」
「違う派閥の繋がりなんてよく持ってたわね…」
「兄の代で派閥を違えたけれど、母方の祖母の親戚だよ。ちょっとした恩も売っていたし」
話していると目的地はすぐだった。裏口で別れを告げ、中に入るとすぐ風呂に入り、新しい服に着替えさせられ持っていた物は全て実家か王宮に運ばれた。
お茶を飲みながら、昨日のレイモンドを思い出す。
『お願いがあるんだ。兄上にもらったものは全て、実家に置いておくか捨ててほしい。出来れば兄上が触れたもの全て。
それから、兄上と会う時は俺も居る時だけで、他の人…特に兄上からは何ももらわないでほしい。
明後日がパーティーだから、少なくとも明日まではベルは王宮に滞在するだろうと思われているはずだ。明日俺の居ない間に兄上に来られては困るから、移動してもらうよ。勿論殿下には許可を得ている』
その後小声で今日の為の打ち合わせをして、今に至る。
最初はちょっと独占欲が強いのかと思ったが、それにしては度が過ぎている。しかもゆっくり考えるほど、独占欲というより他の意図がありそうな気がして仕方がない。どのようなものかは分からないが。
家主の公爵は全く知らない事になっているし、この別邸に来ない。ここで起きたことは基本的には全て口外を禁止されるらしいので、私は今ここに居ない事になっている。レイモンドもパーティー後までは来ない。
『パーティー後、恐らく尾行されて場所はバレる。その後家族と顔合わせするかどうか話し合いたいので考えておいてほしい』と言われたが、そもそも顔合わせしないという選択肢は普通無いから、覚悟を決めろという事だろうと思う。
8年も片思いして、この1年は会わなかったにも関わらず水色の瞳が忘れられなかった。なのに、この数日はむしろレイモンドの群青色の瞳ばかり思い出している。彼の言う通り忘れられるかもしれないという期待と、会えばまた辛くなるのではという不安で頭がこんがらがったまま、ひたすら刺繍を刺して気を紛らわせていた。
***
パーティーの日、ドレスを着せられた私は王宮でレイモンドと合流した。私自身社交は得意ではないが、それなりの規模なのに招待された客の中に私の知り合いが他に一人もいなかったことが驚きだった。
王族の挨拶の後、私とレイモンドが、ヒューバート殿下ではなく、陛下直々にお褒めの言葉を頂いた。と同時に、レイモンドへの褒賞として、私との婚約が王命で結ばれたと発表された。
陛下にお声がけいただいた二人が婚約ということで、その後多くの人が私たちにおべっかを使いながらすり寄ってきた。それらを笑顔で捌き、程々で切り上げて帰宅した。
入浴後、疲れて寝台で寝そうになっているとノックの音がした。慌てて寝間着の上からガウンを羽織り、許可するとレイモンドが入ってきた。
「ごめん、疲れているのは分かっていたんだが、今日中にどうしても話しておかなければいけなくてな」
「大丈夫よ。それで、顔合わせについての話だっけ?今日中にということは、明日にでもステファン様が来る可能性が?」
「まぁ…そうだな…」
レイモンドは何から話そうか迷っていたようだったが、一呼吸して、覚悟を決めたようにまっすぐ私を見た。
「ベルは、高位貴族の令息が魅了消しを持っていることは知っているよな?」
いきなり関係ない話に面食らったが、答える。
「えぇ、学園で習ったもの。一人の令嬢に5人も籠絡されたことがあったからでしょう?」
「あぁ。では魅了魔法には2種類ある事は?」
「知らなかったけれど、そのせいで令息が物を簡単に受け取らないという事は知っているわ」
魅了の魔法は使用自体禁じられている。件の令嬢を模倣されては困る為魔法の詳細は伏せられているが、魅了などいくつかの魔法に関連して、学園では基本的に男女間の贈り物は禁止である。
「高位貴族の令息は標的になる可能性があるから詳細を教えられるんだ。
魅了魔法には、媒体を必要としないが術者が側にいなければならない一時的なものと、媒体を必要とするが術者が離れていても効果が持続するものがある。
魅了消しは後者に対しては徐々に効かなくなるが、前者は完全に防げる。落とし物を拾わせるというのもあるが、一時的な方を掛けている間に媒体を押し付けるという手口に有効だ」
「そんな事私に教えてもいいの?」
どう考えても聞いてはいけない話だろう上、話の着地点が見えない。
「あぁ。ベルが兄上の事を好きになった時の事は覚えているか?」
「えっ…まぁ…そうね…」
「話してくれないか」
ファンクラブの中では何度もしていたが、レイモンドに話すのは気が引けた。しかし話さなくてすむ雰囲気でもない。
「貴方も一緒に居たと思うけれど、初対面だったのに疲れた私をステファン様が抱っこして運んでくださったのよ。その後ハンカチを冷たく濡らしてそのままくださったし。それで…」
「ベルはその時、本当に疲れていたか?今同じ事をされたらどう思う?」
レイモンドの問いに、恥ずかしさを抑えてなるべく平静に考える。
「そうねぇ、8年も前の事だけれど…お茶会は始まったばかりだったから、そこまで疲れていなかったかもしれないわね?
最近誰かさんに同じ事をされたら…とても恥ずかしくて逃げ出したくなったわね…」
「…あれを初対面の人に、人前でされるというのはどうだ?当時はどんな風だったか覚えているか?」
「今なら人目が気になるかしら。当時も8歳と抱っこされるような年齢ではなかった…でもあの時は何だか一目惚れして魔法にかけられたようにポーッとしてしまったわ」
レイモンドは溜息をついた。
「本当に魅了の魔法にかけられていたんだよ」
一瞬何を言われたか分からなかった。言葉を理解しても、8年もの片思いが自分の想いですらなかった事を信じられない。しかし、同時にひどく腑に落ちた自分もいた。色んな所で違和感は生じていたのかもしれない。
「うそ…だって、私なんか狙っても何の得もないわ…」
「俺がベルをずっと見ていたから、俺への嫌がらせだった。本当に済まない」
2歳上のステファンは小さい頃からレイモンドに歪んだ執着を見せていたという。レイモンドが楽しむものを取り上げ絶望した顔を見るのが好きで、親が取り返す事もあったが、人もおもちゃも沢山奪われたらしい。
レイモンドが6歳の時、魅了魔法に一度かけられた。しかしステファンは恍惚として言いなりになる様子は気に入らず、代わりにレイモンドの周囲の人間を魔法で魅了して取り上げていく事に夢中になった。
私と出会った頃も、レイモンドが私を気に入ったのを知ったステファンが魔法をかけ、その後ずっとかけ続けていたらしい。
「でも媒体ってきっとそんなに長持ちしないでしょう?」
「頻繁に会って魔力を補充すれば1年に1回ぐらい新しいのを渡すだけでいい。ハンカチをもらったり、ファンクラブのグッズと言って兄上に一時的に預けたりしていただろ?」
ファンクラブの皆はハンカチをもらった事がきっかけというのが定番で、1年に1回万年筆を買ってはステファンに預けてサインを入れてもらっていた。
「魅了魔法で言いなりにして結婚したって好きな人なら虚しくなるらしい。言うなりにさせても、特徴的な態度になるからバレるリスクも高い。バレたら刑が重いから、結婚で身分が変わる令嬢ぐらいしかリスクを冒してでもという人はいないと思われていた」
まさか弟が苦しむのを見るためだけに令息…いやもはや当主が、という事は多くの人の理解の範疇を超えている。権力を使えばいいからだ。
「この1年、兄上が卒業してベルとの接点は減り、更にベルは兄上を徹底的に避け続けた。豊富な魔力量で無意識に少しは抵抗していたからこそ避けられたんだろうが。そして魔法が切れた」
しかも魅了の効かないヒューバートが私をレイモンドに娶せた。レイモンドは側近入りの時点で兄と距離を取っている。ステファンはこの結婚を機に再びレイモンドに近づき、私を魅了して絶望に落としたいと思っているらしい。
「その上、王は俺を邪険に思っていて、まずベルを利用して俺を側近から外そうとしたが失敗した。しかしごく最近知ったか、兄が在学中に魅了を使っていた事を疑っており、その証拠集めをしようとしている。兄の魅了魔法の使用が立証出来れば俺を側近から外すどころか下手すれば貴族ですらなくさせられるからな。
最後に使ってから1年は経過しているだろうから、媒体に魔力は残っていない。恐らくまだ身内となっていないベルに対して使用する時がチャンスだと思っていたはず。あのまま王宮に居たら、王付きの侍女が兄上をベルの元へ案内し、現行犯で捕まったろう。
ただ、ベルと結婚する前に膿を出したいのは俺も同じだ。王に知られる前に兄上は事故に遭うか病に倒れ、療養してもらう予定だ。だから、被害者であるベルが会いたいかどうか聞こうと思った」
「それで、顔合わせを『するかどうか』だったのね…」
そもそも判断するのに必要な情報が足りなさすぎるのはどうかと思う。
「ベルとの結婚が決まる前は、義姉上が嫁ぐ前にとは思っていたんだが…兄上は明日領地に発ってもらう予定だから、今日中に答えを聞きたくてだな…」
確かに王に知られる前にと思えば急がねばなるまい。私の居場所も分かったのだから、明日この屋敷を見張ってステファンが出入りした後に私を呼べば証拠となる媒体が手に入る可能性が高いのだから。
「私は…会わなくていいわ。一言言いたい気持ちはあるけれど、長期に渡って影響下にあったもの。危険は排除するべきよ」
私の答えを聞いたレイモンドはホッとしたように笑って、すぐすまなそうな顔をした。
「本当に影響下になさそうで良かった…んだが、今から少し手荒にする。すまない」
レイモンドは素早く私を後ろ手に縛り、口の中に布を突っ込み、足も縛った。いきなり何が何だか分からない。
「念の為拘束させてもらった。ベルは忘れているんだろうが、右耳にピアスが着いている。魅了されている間に、それに関して命令されていたようだ。ピアス自体はよくある親への緊急連絡用魔術具だが、外すと恐らく兄上に報せが行く」
レイモンドが手際良くピアスを外した。確かにもらった事も着けていた事も外した時は自害しろと言われていた事も忘れていた。外すと少し頭がはっきりした気がした。
拘束を外してくれていると、魔術具の特急電報が届いた。
「逃げ出そうとした兄を捕まえたらしい」
レイモンドは感慨深そうにソファに座って天を仰ぎ、右手で顔を覆った。しばらくして、私に向き直って頭を下げた。
「8年もの間、兄が貴女の時間を奪って申し訳なかった」
「気持ちは分かるから受け取るけど、貴方に謝ってもらう必要はないのよ。恋愛関係以外は普通に楽しく過ごしていたのだし、結果としては今まであった縁談の中で最良でもあるわ。
…でももし私の為に何かしたいと思うなら、これから先、幸せにしてくれたら嬉しいわ、…レイ」
初めて自分の意思で彼の愛称を呼べば、レイモンドはとても嬉しそうに笑って了承した。
***
結局、ステファンはあの夜に事故に遭い、その後身体を壊し3年後に亡くなった、という事になった。
私達は1年の婚約期間を経て結婚し、式を挙げた。その後私は、王宮での溺愛は振りではなく本心からの行動だったと恥ずかしい程思い知らされるような幸せな年月を過ごしたのだった。