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百四十八話…… 『天閣の祝詞、 後日談・7 やりたいこと《三》』

日差しは高く、 まだまだ暑い、 暦の上では刻刻と秋に向かって居るのに、 夏だろう、 暑い


だが、 この位の季節になってくるの暑さに安心を覚える物だ、 朝晩にふと冷たい風が過ぎる、 どれだけ文句を言っても夏が好きで冬が嫌いだ


まだ暑い、 まだ夏だ、 そう言い聞かせ、 終わりを認識しないようにする、 まだまだ続くと懇願する……


冬は冷たい、 芯から冷える、 冬の夜は苦しい、 肺が氷りそうになる、 手足がまるで自分の物でないような感覚


苦しい、 眠れはしない、 もう少し経てばまた冬が来る、 冬が来たらお終いだ、 まだ暖かいから、 外でも、 穴の間にダンボールでも大丈夫だ


でも、 時折頬を撫でる明け方の風にすこしだけ焦燥が混じる


……この世界は残酷だ、 誰も私を見てくれない、 世界は私の為に止まってくれない、 夏は待ってくれない、 冬は遠慮してくれない


私はまた晒される…… もう、 こんなのは最後にしよう、 寒くなる前に、 最後にしよう…… また辛くなる前に……


今年こそ、 首をくくろう………………


……………………


「……おい、 おいっ!」


っ………


父の声で意識が戻る、 そうだ、 自分は今、 珍しく家の中だ、 ボロアパートだけど外よりずっといい素敵な場所だ……


「……何? どうしたのお父さん……」



「ああ、 実音璃、 お前幾つになった?」


え…… 歳……………


ランドセルが要らなくなってから一年経った、 多分私の年齢は……


「……十三歳になったよ」


父はぶつぶつと何かを呟いた後、 顔を上げると、 頷いた……


「そうかそうか…… 少し早いが頃合だな…… なぁ、 実音璃、 そろそろ親孝行したくないか?」


ぇっ…………


「いつも家に来てくれるお姉さん居るだろ? あの子もな、 確か金が無くて十五で始めたらしいんだよ、 勿論真っ当な店なんかは行けない、 自営業みたいなもんさ」


「彼女はその時のツテを紹介してくれるらしいからよ、 試しに今晩行ってこい、 〇〇公園まで相手が迎えに来てくれるらしいから」


………………………何?


「あ? 何ぼーっとしてやがる、 何か言ったらどうだ? あ? ……それとも嫌だなんて言わねぇよなぁ? 両親がくたばった天涯孤独のお前を、 引き取って本当の父親の様に育てた俺に孝行してぇよなぁ?」


そうだ…… この男とは結局血なんか繋がってない、 いや、 遠い親戚だから繋がりは無いことは無いのか


でも、 両親が交通事故で二人とも居なくなってから、 私は初めてこの男の事を知った、 施設なんかも忙しいらしくて、 望んでも無いのに必死に系譜を追ってくれた


そして見つかったのがこの男、 この男は二つ返事で引き受けたと言う、 こういう場合は面倒くさがるのが普通だと思う、 でも違った……


何もかもが違った、 この男は私がまだ幼い女の子だと聞いて、 利用価値があると思って引き取ったのだ、 この男からしたら私は、 物と同じだ………


なっ………


「……何を、 すればいいんですか?」



「あ~? 分かんねぇ? さっきも言ったろ、 いつもここに来るお姉さんさんみたいな事をすりゃ良いんだよ、 簡単だろ?」


…………嫌だ


「お前みたいなガキを好む変人がこの世の中には幾らでも居る、 そういう奴は至って金持ちだ、 普通に飽きて、 他と違う事をしたがる…… 良かったな? お前が好かれればもう金に困らねぇ」


「夜は凍え無くていいぞぉ? 広いベットで抱かれて眠るし、 きっと飯もいい物を食える、 服だって上等なのを用意してくれるだろうな、 ったく羨ましいくらいだぜ」


………怖い


「……震えてんのか? 大丈夫だ、 そういう金持ちこそ表では紳士ぶる、 初めは優しくしてくれるし、 その内慣れてもくる、 一年後には毎日楽しくて仕方ねぇよ、 多分な」


「世の中にはそうやって生きてる女が山程居る、 何も珍しい話じゃない、 貧乏何だ、 使えるもの使って生きていくって、 それだけじゃねぇか?」


「俺はな、 これでも父親としてお前の幸せを考えてんだ、 お前が幸せになれる道、 そして同時にお前が俺に恩を返せて俺にも金が入ってくる、 これだけ全部が上手く行く方法は中々ねぇぜ?」


さぁ……


「行ってこい」


…………………………………………



……………


大丈夫、まだ暑い、 汗が止まらないし、 蜃気楼のせいか視界は霞むし、 熱中症気味なのか吐き気がせっついてくるし……


苦しい………


少女は一人、 アスファルトの道を歩いて居た、 照り返す様な熱が上から下から少女を焼く、 まるで地獄の様だ、 何故こんなに暑いのに冷や汗が止まらないのだろうか


通り過ぎる様な人は少ない、 当たり前だ、 今日は平日だ、 何もしてないのは学校に行ってない私くらいだ……


……………………


(……私、 どうなっちゃうんだろう……)


現実感は無かった、 夜は殆ど家に入れて貰えない、 たまに玄関まで許される事は有る、 だから見かけるお姉さんと中で何をしてるかなんて殆ど知らない


でも、 一つだけ言えることがあるとすれば………


(……嫌だ)


行きたくない、 聞こえるのが乏しい音だけど、 私には分かる、 耳に届くお姉さんの声は、 まるで泣いている様だった……


でも、 きっと、 これは、 人生の、 そう、 人生が道だとしたら、 進む以外に選択肢の無い分岐路だ、 他に行き場の無い状況……


他に道は無い、 止まることも無い、 この歩みが止まる時は、 即ち、 死ぬ時だ……


……不思議な物だ、 こんなに辛く苦しくとも、 暑くとも、 寒くとも、 自身の尊厳を全て奪われようとも、 その度に、 死んでしまいたいと思っても……


死にたくは無いと、 声がする、 こんな状態で生きていたいとも思わないのに、 こんな状態でも、 私は死にたいとは思わないのだ……


だって、 凄く怖い、 前に一度、 玄関と隣接したキッチンから、 もうずっと使われて居ないような冷たい包丁を持って、 浴室で手首に刃を当てた時も、 震えるばかりで力が入らなかった


野菜も、 肉も、 魚も骨ごと断つ包丁の癖に、 その時ばかりはどれだけ押し付けても、 少しばかりの跡と傷が付くだけでとても手首に刃は入らなかった


その後…… もうやめた、 きっと、 二度と同じ事は出来ないと、 背が冷えた、 寒かった、 冬の凍えとはまた別の、 死とは冷たい物だと初めて知った


きっと……


(……この道を進む事は、 私にとって、 死ぬよりもずっとマシな事なんだろうな)


なら、 良いじゃないか…… どんな思いをしても生きて行けるなら、 あの男の言った様に、 一年も同じ生活を続けていれば慣れてくる


当たり前になれば何も辛く無くなる、 男に恩何て感じて居ないし、 恩返しをする道理も感じ無いが、 少なくとも今の生活が続くよりずっと良いんだと思う……


…………


重い足取りのまま、 歩く事数十分、 目の前に公園が見えて来た、 良く見知った公園だ、 家から程近い


下を向きながら、 とぼとぼと歩く、 座ろうと思って歩いたベンチに、 先客が一人、 座っていた……


別に関係は無いと思った矢先、 不意に、 その先客は何か言葉を放った、 だが勿論それも私には関係無いと、 閉ざした心に声は届かなかった………


……それでも、 一言、 二言、 次第にその声が自分に向いてると思った時、 ようやく私は視線を上げた


そこには………


「……やぁ、 大丈夫? やっとこっちに気がついてくれたね、 倉勿実音璃くらなしみおりちゃん…… 久しぶり、 元気だったかい?」


………


男だ、 スーツを着こなしたサラリーマンといった装いの男だ、 だが、 いや、 この公園も、 そうだ、 私はこの人を知っている………


『……あの男、 よくこの公園に居る、 身なりが良い、 良いか? あの男の所に行ってその手紙を渡して来い、 もしかしたら釣れるかもしれねぇ』


……………


そうだ、 あの男に指示されて、 私から声を掛けたんだ、 肌寒い日だった、 それから数日後、 私達は冬の街に出掛けたんだ……


カフェに行って、 ショッピングモールで映画を見たり、 お昼ご飯を食べたり、 色んなお店を見て、 初めてプリクラも撮ってみたりして……


でも、 全部、 全部演技で、 どんな瞬間も後ろを付いて回る目が気になって、 最後は酷かった、 騙したのは私だ……


あの男は、 彼が見ず知らずの私を連れて歩く様を写真に収めた、 厳しい物だ、 例え私の了承ありきだとしても、 私みたいな子供を関係の無い男、 それも女の子を連れて回すだけで、 充分過ぎる程の問題になるらしい


犯罪にならなくても、 問題になれば良い、 それで充分脅しになると男も言っていた、 それは彼が信用を大切にする様な仕事に就いているからだと……


よく調べた物だ、 脅して、 一応親権者に近い関係を持つあの男が、 彼に、 一日デートとして代金を要求し、 彼は蒼白した顔で二十五枚の紙を男に渡した


あの時の私は、 毎日寒くて、 ただ家の中二入れて貰う事しか考えて無かった、 最低だ、 私何て、 本当に最低だ………


……なんでだろう、 彼の名前は、 不思議と忘れてない…… そう


「…………雨録お兄さん」


森郷雨録もりさとさめろく、 彼が出会った日と変わらず、 公園のベンチに腰掛けて居た、 彼が笑いかける


「ああ、 良かった、 覚えていてくれて嬉しいよ…… 久しぶりだね、 三年かな、 あっという間の様な、 ついこの間の様な……」


……何だろう、 何を言って居るんだろう? 私は知っている、 きっと彼は怒っている、 きっとこれは嵐の前の静けさ、 内心では今にも腹立たしく怒りを煮えたぎらせて居る事だろう


「……あと、 お兄さんって歳でももう無いさ、 私も気がつけば三十路に入った、 早い物さ、 おじさんだよ、 もうすっかりおじさんだよ」


そういう割に、 彼は爽やかだった、 あの男のように酒臭くは無いし、 清潔感のある見た目をしている、 凄く好感的だ


怒られるかもしれない、 そう思っても、 許せる自分が何処かに居る、 彼の怒りは真っ当だし、 それは私が受けるべき罰、 義務のある罰だ……


「………久しぶり…… です、 あの…… またお昼休憩ですか? ……それとも私に何か御用ですか? ……あの日のお金を返せ、 とか………」


でも、 やっばり少し怖くて、 目を伏せた、 言葉も少し震えてしまう……


「………ああ、 いや、 違うよ、 会社は辞めたよ、 確かに君に用があったけど…… まあ、 君は子供だ、 あの日の事は気にしなくても良い」


落ち着いた声だった、 紳士的……


……ぁぁ、 そうか、 そういう事か、 全てが繋がった、 この公園で待ち合わせ、 そして彼が居て、 私に用があって


初めは皆優しく、 紳士的だと、 お金持ちだと、 あの男も彼はいい身なりだと言ってたし、 そういう事か、 つまり……


「…………お兄さんが、 私の相手何だね」


そういう事だ、 あの男が言っていた、 私に広いベットと、 暖かい飯と、 服と、 偽りの愛を与えてくれる変わった人……


そうだそうだ、 初めからそうだった、 あの男にもお金は入るんだ、 前にもお兄さんは男に金を払って居たのだし、 私がよく理解して無かっただけで、 これは、 男とお兄さんの、 ウィンウィンの関係と言うやつか……………


………あれ? 何でだろう、 騙してたの私なのに、 騙されて居たのは私の方? あのデートは初めから全部演技、 どちらにも想い何て無くて、 ただ金の流れを通す為の行為で……


それに気が付いて、 彼にも、 初めから私に対する気持ち何て無かったのだと、 今になって気が付いて、 どうして……


(……どうして、 私はこんなにも寂しいんだろう……)


涙が頬を流れてしまった、 それ程までに私は、 まさか私は、 あの、 仮初の初デートを、 私は……………


「………実音璃ちゃん? 大丈夫かい? どうして泣いて………」


………うん、 でも…………


「……お兄さんで良かったのかもしれないね、 知らないおじさんじゃなくて、 迎えに来てくれたのがお兄さんで良かった…… だって、 演技でも、 仮初でも、 お兄さんは……」


そうだ、 あのデートも……


「……楽しい時間をくれるから」


偽物でも、 そうだ、 あの男も言っていた、 私が幸せになれると、 きっと私の幸せは、 偽物の愛の中にあったんだ……


……そうして見た、 彼の顔は困惑に染まっていた、 何故だろう、 話が噛み合って無いみたいな……


「……実音璃ちゃん、 ごめん、 確かに私は君に用があってここに居るけど、 君の言っている事はそれとは違うみたいだ、 君は何の話をしているのかな?」


…………?


「………あれ、 変だな、 お父さんが言ってたの、 私はこれから、 お金持ちのおじさんの家に行って、 広いベットで抱いて貰うんだって、 それで幸せとお金が貰えるらしくて……」


「この公園に迎えに来てくれるみたいで…… それが、 てっきり雨録お兄さんなのかなって………」


……何だろう、 彼の顔が見る見る、 瞼が痙攣して、 嫌悪感の様なものを抱いた様に、 思わずと言った様に絶句している、 妙だ……


「……えっ ……でも、 変な事じゃ無いよ、 お父さんも言ってたの、 こうやって生きてる人は沢山居るって、 家にも良く綺麗なドレスのお姉さんが来てねっ……」


変だ、 彼はまだ何も行ってないのに、 私の口を付いて出てくるのは、 誰に対してか、 言い訳の様な弁解ばかり、 私はどうしてしまったのだろう……


彼が、 それでも必死に、 飲み込む様に、 暫くして私の目を見て問いかけた……


「……実音璃ちゃんは、 本当にそれで良いのかい?」


…………


その質問は残酷だった、 だって選択肢何か無いだろう、 良いも悪いも無い、 ただ、 私みたいなのは、 言われた通り進むしか無い………


「……そんな事言ったって、 他に道なんて無いでしょ………」


彼が何かを言おうとした、 だが、 その前に、 それを遮る様に、 ゆっくりとした拍手の音が耳を叩いた


パチパチパチパチパチパチ……


その方を見ると、 今時見やしない、 明らかに質の良い燕尾服を着こなした老人の男性が付き添いの人を連れてこちらに向かって来た、 手を叩いて居るのはその男だった


老人の男はこちらに紳士的に腰を折り挨拶すると、 断りを入れてから口を開いた


「いや~ すみませんな突然、 お二人の話を聞いていたら、 どうしても年寄りが口を挟みたくなったのです」


………誰だろう、 知らない人だ、 お兄さんはその老人の男性を軽蔑を込めた目で睨んで居る


……ぁぁ、 分かった、 簡単な事だ…… この人が、 私を迎えに来てくれたお金持ちだ……


「初めから謝るつもりなら割り込んで来て欲しく無かったな、 ただでさえ暑いのに暑苦しい格好をして、 コスプレ大会でも近くであったんですか、 じいさん」


あれ、 怖い、 優しいお兄さんの声とは思えないくらい、 その声は低く、 言葉遣いも軽視的だった


「はっはっはっ! ブランド品にも質が有る、 私からしたら世に名前の知れたブランド品こそ下品質、 本当に金の有る者が纏う衣装の名は余り有名じゃ無いんだよ、 何故なら本当の金持ち等、 数える程しか居ないのだから」


「コスプレの衣装に見えたのも仕方ない、 この背広も到底君に手の届く物とも思わない、 若者が無礼である事もこの歳になれば寛容出来るという物……」


雨録が随分と嫌そうな顔をしたのを見て、 老人が頬を控え目に上げる、 老人が今度はこちらを見る


「ふっ、 初めまして、 私は宮藤熙くどうひろむ、 初めましてお嬢さん、 君が実音璃ちゃんで間違い無いかな?」


私は小さく頷く


「……うん、 可愛い子だね…… お父さんから話は聴いていると思うけど、 安心して欲しい、 私は君を幸せに愛するよ」


老人は優しい声で私を撫でた、 妙に首筋の辺りが痒くなる様な声だった


「君はさっき言っただろう、 『他に道は無い』と…… 私が拍手をしたのは、 君がきちんと自分の身の丈を理解した賢い子だったからだ」


老人は横目で雨録を見る


「子供でも、 大人でも、 自分の身の丈と言うのは有る、 無い袖を無理に振ろうとすれば周囲から滑稽に映るばかり、 その点君はきっちりと自分の袖丈を理解している」


「無いものは無い、 無いなら無いなりに出来る事が有る、 進めない道を前に無意味に時を要し、 頭を悩ませ、 どうにか乗り越えようとして、 結局最後に諦めるなら、 それは努力ではなく、 ただ愚かしいのみ」


「君の前に有るのは私の手を取る道だけ、 それの何が悪い? 何も悪くない、 君は自分の力で、 必死に生き、 使える物を使って幸せを掴む、 君の道はクリーンだ、 そこに何の無駄は無い」


「シンプルイズベスト、 そう生きれる人は少ない、 君は、 選ばれた存在何だよ…… 選ばれた人間にはそれなりの様相と言うのが有る、 さぁ行こうか、 君に幾つか綺麗な服を見繕ってあげるよ」


少女の震える指先を、 老人が紳士的に取る、 それはエスコートだった、 長い人生そう生きて来たのか、 様になっている…………


…………様になっているからこそ、 浮いて見える、 こんな光景をそうそう目にしない、 まるで、 あれだ、 モンスターを初めて見た、 混沌の異界感、 あれだ


異様な存在感、 特異点、 それこそがこの男のやり方、 気が付かぬ間に、 彼の世界観に呑まれてしまう、 気が付かぬ間に、 もう、 その手を離すことは出来ない………


………………………


………ただ、 一つだけ言わせて貰うなら、 やっぱり例えが悪かった、 初めてモンスターを見た時の感覚? あの街を覆って居た異物感?


………はっ、 はははっ


「ははははははっ! くっ、 はははっ! 」


笑ったのは、 雨録からして目の前で起きる出来事が余りに茶番じみて居たからだ、 本物の緊張感と言うのは、 もっとヒリヒリする


本当の化け物を目の前にした時、 もっとずっと、 全身がヒリヒリとする……


この男にそれは無い、 あるのは無駄な大きい自信と、 実は中身がスカスカのプライドだけ……


だから、 既に少女の手を引き、 一歩歩き出した老人が、 腹を抱えて笑う雨録の声を聞いて……


ザッ………


足を止める………


「………ふん? どうした、 突然はしたなく笑い出して、 まさか、 予想外の行動を取り私の足を止める作戦か? お~ 素晴らしい成功だ」


ぷっ


「あははっ! 何を言ってるんだい? 笑うって言うのは面白い事があってこそ笑うんだよ、 笑ってる人間を見て最初に思う事が、 呆然を誘う煽りと思うとは、 子供の言い合いじゃないんですよ、 おじいさん」


老人は大袈裟に肩をすくませ、 柔和な笑顔を改めて貼り付けてから雨録に問う


「ほうほう、 面白い事か、 私は面白い事には興味津々でね、 是非聞かせてもらいたいねぇ~」



「ああ良いとも…… 実は私の父は会社の社長でね、 父が毎日遅くまで汗水垂らして働くお陰で、 母も、 私も凄く充実した日々を過ごしていた」



突如語られる身の上話、 老人は首を傾げる、 しかし雨録は話を続けた


「年に数回は海外旅行に行き、 誕生日プレゼントも何時だって最新の物だった、 お年玉だって子供ながらに一万円も貰っていたよ、 鰻だってよく食べたし、 高くて手が伸びない様なフルーツもよくデザートで出た」


雨録の話は、 対抗馬として掲げるにはあまりにも貧相だった、 何故なら老人を見れば分かる、 そんな生活と比べ物にならない日々を、 きっと生まれてから今まで絶えず過ごして来たのだろう


それを示す様に、 今度な老人が笑う


「はっはっはっ、 いやはや、 それは何とも素晴らしい、 庶民が必死に手を伸ばし背伸びをすれば、 容易に届く素敵な生活だ」


「我々もよく、 庶民体験イベントで似た様な事をした事があるが、 確かに偶に経験してみると面白い、 あれが毎日続くのだからさぞ素敵な事だろう、 確かに面白い話だったよ」


にっこりと笑う老人に、 雨録はきょとんとした顔で返す


「おや…… 妙だな、 今のは本題の為の補足に過ぎなかったのに、 まあ、 楽しんで貰えたのなら何よりだ…… それで、 ここからが本題なんだけどね?」


老人のつり上がった頬がゆっくり落ちていく、 アハ体験の様な物を見ながら雨録は落ち着いた声で続けた


「まあ、 要は、 父は自営業で、 需要があったから成功したが、 確かに庶民に毛が生えた程度の存在だった…… でも」


雨録は男の足元、 綺麗にツヤのかかった本革でしたてられただろう靴を指さして頬を上げた


「その靴、 父も同じ物を持っていたな~ 庶民が必死に手を伸ばせば以外と本物の金持ちにも届くんだな~ ……いや、 それとも、 金持ちが、 意外と本物じゃなかったのか………」


………………


グッ!


老人が明らかに足に力を込めた、 公園の地面に革靴の底跡が刻まれる、 老人の顔を見れば、 笑顔が歪み、 般若の面が覗いて居た


「………ははは、 確かに面白い話だ、 確かにこの靴は私の所有する物の中でも余り値は高い物では無いが、 君がコスプレの様だと言ったこの格好に最もバランスの取れた靴何だ、 何も高ければ高い程良い訳じゃない、 この様に豊富な選択肢を持つ事こそ我々の様な存在の最たる長所なのだよ?」


成程、 言っている事は確かにその通りかもしれないが、 説得力を感じないのは、 急に早口になったからか、 聞いても居ない様な事をベラベラ語り出したからか……


だが………


「金持ちってのも万能じゃないんだな…… 自分は豊富に選択肢を持っていると豪語する癖に、 そちらの少女には道は一つしかないと語って見せる、 シンプルイズがベストな人生とやらは何処へ行ったのやら」


「身の丈で人生が決まっては堪らないね、 何故なら身の丈も、 袖丈も、 この長い人生の中で何度も変わり続けるのだから」


雨録は未だベンチに深く腰を掛けたまま空を見上げ、 深い息を着く


「子供の頃と言うのは、 誰だって皆小さい物だ、 守ってくれる人が居なくては生きて行けないし、 守ってくれる人がとても好きに感じてしまう」


雨録は小さい頃、 母や、 小学校の先生、 自分が好きだった人の顔を思い浮かべる


「でもその人達は、 何時だってただ受け入れるだけでなく、 時には叱り、 進む道を示してくれた、 今になれば分かる、 それは自分で前に進む為の力を、 経験を付けてくれてたって」


「私は思った、 自分が大人になった時、 そうやって私を導いてくれた人の様に、 私もいつか、 誰かを導く存在になりたいと」


「身の丈も、 袖丈も無い子供の私を、 導いて、 前へと進めてくれた人達の想い、 前へと進み、 時に躓き、 挫折し、 苦しみに耐え、 それでも、 少しずつでも進んだ先に見えた光、 その光はまだずっと遠くても……」


「私は大人となり、 私は大きくなり、 確かに小さい頃には持ちえなかった、 知識や、 経験、 理性、 尊厳、 勇気、 覚悟、 成長の中で身の丈も、 振る袖も、 私の中に確かに培われて居た」


雨録はまだ手の届かない遠い空から、 今度は手を伸ばせば届く、 一人の少女へと目を向ける


「君と私では確かにずっと状況が違う、 私が子供の時に既に豊富に持っていた物を、 君は少しも持って居ないのかもしれない…… 君は、 まだ、 道を、 一歩も踏み出せて居ないのかもしれない……」


ザッ!


「だから与えるっ!!」


雨録の言葉を遮るように、 老人が大声で自身を主張する、 少女から手を離し、 両手で大きく、 威嚇するかのように広げ、 高いらしい不格好を精一杯に掲げて見せた


「はははっ! 聞いていれば退屈なっ! 弱者の迷言、 聞いていて背筋に鳥肌が立つわっ、 与えられなかった物がその小さな枡の中でどれだけ足掻こうが滑稽極まれりっ、 貴様らが手を伸ばそうと、 藻掻こうと、 何をしてもっ! 勝者にはなれないっ!」


「何故ならっ! お前らは何をしてもゴールに辿り着けないし、 既に我らはゴールの先に居るからだっ!」


そしてっ


「ゴールへ辿り着いた者は更なる上元のステージへとっ! 今度は我らが力を与える存在へとなるっ! 選別する者っ、 上位者となるのだっ!」


「お前と彼女は違うぅ? 当然だっ! 彼女は選ばれた、 特別な存在だと言っただろうっ! 最早貴様のくだらぬ問説はこの娘にとっては耳汚しに過ぎないっ!」


老人は興奮し叫び終わると、 再度少女の手へと、 自身の手を伸ばす


「下らぬ説法を説く間が有るなら、 何故彼女に手を差し伸べてやらない? 何故彼女を救ってやらない? 彼女はこんなにも弱く、 汚れ、 震えて居ると言うのに、 何故慈悲を向けてはやらない?」


「いいや違う、 何を言っても、 お前は手を伸ばせないのだ、 覚悟等無い、 何故なら身の丈も袖丈も全ては虚像、 貴様の気分の良い妄想に過ぎないからだ」


「我々と違い、 貴様は口ばかり達者で、 その実彼女を助ける力が無い、 何も無いのだっ! 飯をたらふく食わせる事も、 可愛い子服を買って上げる事も、 広いベットを容易する事も出来ないからだっ! ………違うか?」


老人は勝ち誇った様に笑うと、 今度は紳士性も無い様な、 彼女の意思も何も関係無い様な、 強引に手を取った、 引きずる様に手を引く


雨録は理解した、 きっとこの老人は、 ガキのまま何だ、 ガキのまま老人になってしまった、 自分を構成する世界観と言うのは大人になれば厳しい世界を前に打ち砕かれ再編成される


だから少しづつ自己が消え、 よく人の事を考える、 最近よく、 仲間達の顔が頭に浮かぶのは、 きっと雨録が真の大人への階段を着実に登っているからだと思う


ならば、 雨録は大人として、 少女に対して何が出来るのか……………


その思考ももう、 遅いのかもしれない……


スッ……


老人が手を上げる、 すると老人の乗ってきただろう車の後ろから続いて来た黒塗りの車から、 凡そカタギの人間とは思えない風体の男が二人降りてくる


老人は少女の手を引き、 男達とすれ違う


「私の両袖だ、 私は威厳を保つのが最も大切な仕事でね、 舐められると大きな損失を作る、 だから私を侮辱した者には少しだけ理解してもらう様にしているんだよ」


「もう二度と、 上位者へ泥を飛ばせない様に、 徹底的に刻み付ける…… 二人とも、 手は抜くなよ、 後は任せる」


更に手を引く、 少女はこちらを一瞬だけ見た、 その目には戸惑いだけ、 何処に行くかも分からない、 何をするかも分からない


手を振りほどく選択肢が有るのかも知らないし、 他に道が有るのかも知らない、 何も分からないからただ困惑している……


彼女は助けを求めるでもなく、 手を伸ばすでも無い、 一見、 雨録はベンチに座るだけで、 何もしないので、 本当に彼女を助ける覚悟等無かった様に見えた


だからか、 少女は雨録から目を逸らした……………


………………………


「実音璃ちゃん」


だから、 立ち去る彼女に雨録の声が届いたのかは分からなかった、 それでも、 厳つい顔の男二人に見下ろされ、 それでも雨録は言葉を続けた


「君と私は違う、 君には私の様なやり方を選ぶ度量は用意されて居なかった、 ああ、 そうさ、 残酷な話、 今の君は、 同じくらいの年の私よりもずっと小さく弱い」


「私と同じ所に辿り着くには、 何十倍、 何百倍の努力が必要で、 努力とは血反吐を吐いてのたうち回る事を言う、 苦しい物だ…… でも、 でもね、 初めから、 君の生きている現実とは苦しく、 残酷な物何だよ?」


不思議だった、 その瞬間、 そこには雨録に背を向け歩く少女と、 少女の背へ語る雨録しか居ない様な独特な空間かの様だった


「特別何て物は無い、 誰だってそうだ、 君は私より苦しいけど、 君より苦しい者だって手を伸ばし、 掴んできた、 この世界はそういった物の積み重ねの上に成り立っている」


「君は小さくて弱くても、 それでも、 誰と変わらない…… あのね、 その手は誰かに引かれるんじゃなくて……」


確かに彼女の心へと、 想いを届ける……


「自分から手を伸ばさなくっちゃ、 何処にも届かないんだよ」


小さくても一歩、 そうして手を伸ばして、 足りなければ更に一歩踏み出して、 届くまで、 その手が届くまで、 前へ、 前へ、 伸ばした手が、 届くまでっ……


………………………


ザッ


少女が足を少しだけ止めた、 もう車のすぐ側、 もう遠くの少女に、 それでも想いが届いたのか……


少女が振り返る、 他人に無理やり引かれた手、 でも今度は違う、 少女はその瞬間、 反対の手を、 初めて雨録へと伸ばし………………


ガシッ!


老人が伸ばされたを無理やり掴み、 力を込め、 半ば押し込む様に少女を、 開け放った後部座席へ押し込んだ、 それに続けて老人は逃げ場を封じる様に少女の隣へ乗り込んだ


遠く、 もう、 遠くなる少女の、 それでも想いがそうさせるのか、 雨録の想いが少女に届いた様に、 少女の想いが雨録に届いたのか……


本の小さな隙間、 閉まるリアドアの隙間から、 少女が小さく動かした口、 その言葉が、 雨録の耳に届いた………


《……たすけて》


…………………


バタンッ!


ドアが閉まると、 ハンドルを握った人物がアクセルを踏む、 スマートな運転で車は遠ざかって行く、 見る見る内に、 見えなくなる………


残ったのは……


バキッ ボキッ


「おい、 めんどくせぇから抵抗だけはすんなよ?」



「何時もの場所に移動するぞ、 死にたくなかったら着いてこい」


二人の男の睨みを受けて、 雨録はまるで聞く気は無いと言う様に、 薄ら笑いを貼り付けたまま肩を竦めた


男の一人が息を吐く


「数発くれてやれ、 強烈なのを、 殺さ無い程度にしろよ、 この後が暇になる」


一人が前に出る、 太い腕、 大きな拳だ、 威嚇する眼差しは……


本物の化け物を知る雨録には、 ずっと脆弱な物に感じた、 そして、 あの街で過ごした経験が、 雨録の感覚を麻痺させた


目の前の存在を敵だと認識した時点で、 雨録に躊躇いは無かった………


「カーン・ゲルト」


ドッ …………………………………………



………………………………



…………


車の中は嗅いだ事の無い、 甘い様な、 どこか渋い様な匂い、 そしてシーンのだろう、 本革のシックな匂いで満たされ、実音璃には苦手な匂いだった


肌に吸い付く様なシートは心地悪く、 スモークガラスから覗くよどんだ色の世界は、 まるで自身の心中を表した様だった


抵抗しても仕方ないので実音璃はシートに縮こまって座っていたが、 隣の老人が不意に話しかける


「いや、 悪かったね、 随分暑い想いをさせてしまった、 全くああいうのは程々にして欲しい物だね、 ああいう人間を見ると、 高い木に絡みつき成長する蔦植物を印象するよ」


老人はハンカチを取り出すと自身の汗を拭くと、 今度はそのハンカチで実音璃の額から首筋にかけてを拭った


っ……


「可哀想に、 こんなに汗をかいて、 おい、 後ろのエアコンをもう少し効かせてくれ」


エアコンから吐き出される風が冷たく、 背筋流れる汗がどんどん冷えていく、 実音璃は直ぐに寒い程になってしまった


「さて、 まだろくな自己紹介もしていなかったね…… 改めて、 宮藤熙だ、 よろしくね実音璃ちゃん」


ぁっ……


実音璃は何も言えなかった、 肯定するのも否定するのも怖かった、 そんな少女を見て老人は落ち着いた声で続ける


「緊張してるよね、 もう少し私の事を知ってもらおう、 私は今年で七十六になるのだが、 妻との間に娘が居てね、 一人娘さ、 そして娘にも婿との間に娘が居る、 私からしたら孫になる」


難しい話ではなかった、 その割に老人の話し方は良く理解してもらおうと補足線が多い様に感じた


「残念ながら妻には先立たれ、 意気消沈している所に現れたのが孫娘だ…… もう花の様に可愛く、 あの子が笑顔を向けるだけで全ての悩みが吹き飛んで、 私の心は救われた」


「あの天使の様な女の子が愛おしく、 私の中で、 彼女に対する価値観が少しづつ変化して行った…… 私は、 彼女が欲しくなってしまったんだよ」


…………?


「彼女の為に全てを与え、 喜ぶあの子に触れた、 一緒の布団で寝たり、 一緒にお風呂に入ったり……」


老人が伸ばした手が実音璃の頭に触れ、 そのまま、 撫でる様に耳へ、 首へ…… 張り付いた粘液が流れ落ちて来る様で、 独特の気色の悪さに強く目を閉じた


「……でもね、 あの子は私の前から消えた、 娘が連れて家を出たのだっ、 可愛かった娘はいつの間にか私に軽蔑の目を向けていたっ、 『この子に二度と会わないで』そう言い残して姿を消した……」


グッ



流れた男の手が実音璃の首を掴む、 それはまるで枷、 今度こそ離さない、 何処にも行かせないと言う、 冷たく暗い感情を秘めていた


「……君のお父さんにはとても感謝しているよ、 こんなに可愛い子、 孫娘の代わりとなる子を譲ってくれた、 はははっ、 邪魔をする醜悪な娘ももう居ないっ」


ははははっ!


「もうすぐお家に着くからねぇ~ 街を見下ろせる素敵な別荘だよっ、 そこに着いたらどうしようかね~ まずはそうだっ! 服を見繕うんだったねっ」


「あの子に買ったきり着てくれなかった服が沢山あるんだ、 とっても可愛いんだよっ、 その前にお風呂だねぇ、 汗を流して流しっこしようねぇ~ えへへへっ!」


ぁぁ…… 成程、 これがこの男の本性、 内側に隠した本音、 もしかしたら優しいのかもしれない何て思った自分は馬鹿だ


今になれば漸く分かる、 私は……


(……振り払ってでも、 この手を取るべきじゃ無かったんだっ)


後悔する、 でも他に選択肢何て………


(……お兄さんっ、 雨録お兄さんっ)


きっと伸ばした手も、 か細い声も、 届いては居ない、 きっともう止まる事は無い、 私は……


(……間違えたんだ)


車は止まらない、 進ま続ける、 私の人生を乗せて、 勝手に走る、 もう戻る事は出来ない


車は走る、 車は…………………


………………


「うわっ!? なんだあれっ!?」


運転手の声が聞こえた途端、 車が揺れた、 その後襲う、 奇妙な…… 浮遊感……


ガシッ! バタタタタタッ!


車は…… 車は飛ぶ


うっ


「うわぁああああああっ!?」


何だ? よく分からない、 スモークガラスが邪魔で外がよく見えない、 でもギザギザとした何かが上から車を持ち上げて


「高っ! 高いっ! 何だっ! 何が起こってっ!? っ、 うわぁっ!?」


運転手の悲鳴の中、 車は電柱の高さを超え、 建物の高さを超え、 鉄塔の高さを超えていく


「なっ、 何が起こってるんだっ! おい! 何処を走ってるっ! 何をやってるんだ!」



「ぎゃああっ! トンボっ、 でかいトンボが車を持ち上げますわぁああああっ!!」


老人と運転手が叫ぶ、 実音璃は声も出なかった、 何が起こっているのか分からない、 何が………


バギッ! バギバキバギッ!!


っ!


上、 天井が、 ひしゃげた様な音を立てて、 内装ごとめくれ上がって行く、 よく見れば細い針の様な物が上から貫通し巻き上げて居るのだ


車の天井から空が見えるガラスルーフの様に、 やがて天井が全くなくなって、 飛び込んで来た風が髪を揺らして、 新鮮な空気が肺を満たす


見上げた視界を満たすのは、 巨大トンボの胸だった、 後方にずっと腹の部分が続いて、 前には丸い目玉が見えた、 巨大な翅が揺れている


浮かんで居た、 車は空に浮かんで居た、 相変わらず騒がしい老人達の悲鳴を、 静かな声が割り込んだ……


それは、 巨大トンボの上から聞こえた……


「……私が好きなのは混沌だ、 以前空を龍が飛んだ時も、 モンスターと呼ばれる化け物が街を破壊した時も、 空飛ぶ車にジジイが喚き散らすのを見るのも、 実に面白いんだよ」


だが……


「どうも、 何か変わってしまったんだよ、 少なくともね、 好きな子の、 涙を見るのが嫌いだ、 笑顔で居ると好きだ」


雨録だ、 トンボの上の雨録が、 懐を探って、 取り出したのは一つの便箋……


「これは、 君との初デートのあの日、 別れ際、 渡すつもりだった手紙だよ、 今君に渡そう、 私の想いを受け取ってくれっ」


雨録が少女に手を伸ばす、 少女が一瞬躊躇って、 その手を、 便箋へと伸ばし……


「っ、 恵南えなみっ! またワシの所から居なくなる気かァっ!! 何処にも行かせはしないっ! お前はワシの物だァあああっ!!」


老人が少女へ手を伸ばす……


ビシャンッ!


「いぎゃぁあああっ!? 屋根の破片が手に刺さてぁあっ!?」


屋根を捲り上げた、 何か平たい虫の様な生き物が、 破片を飛ばし老人の手を傷付ける……


「恵南っ、 恵南っ! ワシにはお前が必要なんだよっ、 居なくならないでくれぇ~」


私は………


『……実音璃ちゃんは、 本当にそれで良いのかい?』


………………嫌だ …………


(……っ、 私はこのままは嫌だっ!)


私はっ!


「私は貴方の孫じゃないっ!」


その手を伸ばす、 怖くても立ち上がって、 座席の上に、 つま先立ちで、 届くまで、 届くまで伸ばして……


パシッ!


……漸く、 三年越しに受け取った手紙、 掴んだその手を、 必死に伸ばしてくれた手を、 雨録が強く引き上げるっ


ぶわぁっ!!


風が吹いた、 止まっていた何かが大きく動き出した様な、 風が吹いて、 体が攫われて、 見た空の、 澄んだ青さに初めて気が付いて………


とすっ………


巨大トンボの背は凄くしっかりしていて、 掴んだお兄さんの背は、 がっちりとしていて凄く安心した、 受け取った手紙は手の中に握られている


手前から、 お兄さんが楽しそうに声を掛ける……


「しっかり捕まってねっ! このまま突っ込むよっ!」


………………え?


ブゥウウウンッ! バタバタバタバタッ!!


トンボが車を掴んだまま加速し、 低い高度でトンボは車を離した


「ぎゃああああああああああっ!!?」


響く絶叫が崖を下り、 壮観な佇まいの、 趣味の悪い別荘へと正面から……


ッ、 ドジャアアアアンッ!!


………突っ込んだ、 プー プー、 と無様な音が鳴り響いて、 中から管理人が飛び出してきたのを見てから雨録はトンボを操り山の向こう側へと飛んだ


風を切り飛ぶ感覚は心地の良い物で、 ときめく様な初めての感覚だった……


あ~あ………


「……何だか凄い事になっちゃったね、 お兄さんってば、 凄く大胆」



「ははっ、 こういうのはね、 派手にやった方が楽しいのさ、 もう少し飛んだら降りて、 雛弓さんに迎えに来てもらおう」


……………………


「……ねぇ、 この後はどうするの? 私はこの後、 どうなっちゃうのかな? ……私に未来は見えないよっ、 だって…… 私はお父さんから逃げられない……」


滲む様な汗を清く涼む風の緩やかな流れと、 雨録は背に抱きつく実音璃に首だけで向き直る


「実音璃ちゃん、 過去に縛られて未来が見えない君はもう居ないよ、 だって君は手を伸ばした、 踏み出した…… 前進の、 その一歩目を……」


「今はまだ霞んで良く見えなくても、 君は確かに進み出した、 それは私が保証するよ…… だから、 私を信じて欲しい、 君がもう後ろを振り返らなくても良い様に、 私達大人が居るんだから」


だから……


「実音璃ちゃん、 うちにおいで、 高級料理も、 洋服も、 お姫様の様なベットも、 何も無いけど、 だけど、 私が君に挙げられる最大の、 特別でも何でもない、 至って普通の、 暮らしと温もりを君にあげる」


あっ………………


……昔、 まだ今よりずっと小さい頃、 まだ本当のお父さんとお母さんが傍で笑ってる温めてくれた頃、 お金持ちの夢のような生活に憧れた私があれこれ駄々を捏ねた時、 父と母が言ったんだ


『……お母さんも、 俺も、 昔は普通の男の子と女の子だった、 普通のままで大人となって、 出会だって普通の出会いで、 誰と変わらないありふれた幸せを望んで、 そうして、 かけがえのないもの、 実音璃がここに居るんだよ』



『……そうそう、 普通じゃ無かったら、 少しでも違ってたら、 私も、 お父さんも、 実音璃も居ない……』


あのね


『幸せが、 普通を、 かけがえのない特別にしてくれる、 そうして新たな幸せが生まれて、 また新たな普通が特別になる、 皆が普通の日々を過ごすから、 世界は特別で満たさせて、 皆が幸せで生きていけるんだよ』


…………………………


ぽつ……


涙が零れた、 不思議だった、 いつぶりか分からない、 その涙は温かかった……


「……お兄さんの手紙、 帰ったら直ぐに読むね…… だから、 私、 お兄さんの所に帰りたい」



「……うん、 分かった、 帰ろうか、 私達の家に………」


空はまだ明るいが日は傾き掛けて来ている、 レースの様に薄い雲に反射した光が黄金色に光を放ち、 透き通った青空と調和しまるで祝福する様に二人を包んだ


久しぶりに、 随分と久しぶりに、 私は明日が楽しみに感じた、 未来に希望を抱いた


世界は、 とても、 美しかった

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