準備を進めて
「うっわめんどくさそうだなぁ」
学習院所属の基礎算術学担当教師、シャコ=アナクラウスは盛大にため息をついた。
木製の机と椅子が並ぶ教室で、彼は一人、窓を開けて煙草を吸っている。それがなぜ面倒だなどという言葉を出したかといえば、それは彼の手元にある、今年度の学習院入学生リストに理由があった。
彼はもう一度、百余人分の名前が書かれた名簿に目を向ける。
「うっわレアンド公爵家の次男、うーっわステンネル公爵家の親族、うわうわ東陽大家のご令嬢、はぁー帝国貴族の小僧に、南洋国家の貴族……。はぁ、もうダメダメ。絶対めんどくさいじゃないのこんなんよぉ」
あろうことか書類を投げ捨てて、その教師は煙を吐き散らす。
例年。この学習院には貴族の子が何名かは入学してくるものだ。だが、その大半はスリージ聖王国の者で、他所のお偉いさんのお坊ちゃんお嬢ちゃんはここよりももっと良いところ、アテリアの王立学院に行くと相場が決まっていた。
それが何故か、今年はこうも良家の子が揃ってしまっている。特に、レアンドやステンネルといえば、アテリア四大公と謳われるほどの血筋である。
「そんなの、王立の方に行けってんだ。なぁんでわざわざこっちくるかねぇ。うちはエリートだからって優遇したりはしねぇぞ」
彼が愚痴を呟いていると、教室のドアがからりと開く。音のした方に目を向けると、そこには眼鏡と坊主頭が特徴的な教師が立っていた。
中央言語学を担当する初老、ハートリー=ビグニルは、こほん、とシャコを諌めるように大きく咳払いして、自らも煙草に火をつけた。
「声が廊下にも響いておりますぞ、アナクラウス先生。生徒への悪口はあまり、宜しくない」
「これはこれはビグニル先生。補習はもう終わったんで?」
「ええ。明後日は入寮式ですから、在院生にも体を休めていただこうと思いましてね?」
「そりゃ生徒想いのハートリー先生らしい。見習いたいもんッス」
煙が窓から外へと抜けていた。
風の流れを追いながら、シャコは重い腰をあげて、先ほど散らかした名簿をのっそのっそと集めて回る。
「いやね、別に貴族だろーと平民だろーと変わりゃしませんよ。でも、最近は何だか情勢がきな臭い感じじゃないスか」
「それは国内の話、ですかな? それとも大陸全土の?」
同僚が紙を拾い集めているのを横目に、指を二本立てて、ハートリーは彼の返事を待つ。
「後者っスね。ま、そんな広ぇ範囲の話のつもりは無いっスが、考えるとどの国もゴタゴタしている。どこの国も、っス。それも一斉に」
「……ふむ」
シャコの言葉を聞き、眼鏡の位置を調整しながら、ハートリーが立てた二本のうち、中指を折り曲げた。世界の情勢はゴタゴタ。確かにその通りであると口を引き締めて。
「隣国のアテリアじゃ一昨年に国王が死んでる。東陽三国は言わずもがな内乱の最中。帝国は急な軍備拡張と、それに反対した貴族連中を排斥したって話っス。こんな情勢で貴族の子を預かるのはお互いにリスキーだと思うのは間違いっスかね」
「言いたいことはわかるがの。それでもここは学習院。国の皆様の寄付で成り立っておる場所である以上、やることは何も変わらんでしょうが」
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「ほぇえええ、これでトオイって読むのかぁ」
「何だか、異国の人、って感じするねー」
学習院敷地内の最奥部。その中央にある第一校舎と呼ばれる建物の一階で、登笈らは正式な入寮手続きを済ませていた。
提出書類のうち、プロフィールが書かれた紙を見て、ライアとルーンは目を丸くしている。その理由は、登笈の記入したサインにあった。
書類は大陸中央諸国、アテリア王国やスリージ聖王国で主に用いられる中央言語で書かれているが、本人のサインだけは出身国の文字で書く仕組みになっていた。そのため登笈は、枇杷の国をはじめとした東陽三国の文字で名前を記入していたのだ。
「はい。これで手続きは完了したので、いつでも寮に入っていただいて構いませんよ」
持ち込んだ書類と、事前に送ってある書類とを照合するだけということもあり、入寮手続きは五分も経たないうちに終わってしまった。
何とも呆気ないが、実際やるのは本人確認のようなもの。三人はそれぞれ部屋の鍵を受け取り、男子寮、女子寮へと向かって荷物を置きに行くこととなった。なので、ルーンとは一旦ここでお別れだ。
「っていうか、ライアってレアンド公爵家の人なんですね……」
「なんで敬語!?」
第一校舎の玄関を出て少ししてから、登笈は気になっていたことを口にした。
身なりや言動、金銭からして、貴族の中でもかなり裕福な家の生まれだとは思っていたが、書類にはまさかまさかの四大公の一族レアンドの姓が刻まれていたので、それはもう驚きだった。
だが、本人にしてみれば、あまり知られたいことではなかったのだろう。だからこそ、自己紹介の時も隠していたのだ。
当のライアは、頭をがしがしと掻いて、仕方ないな、と息を吐く。
「あー、おう。一応な。けど次男だし、俺にレアンド公爵家を名乗る力は無ぇよ」
言われて、登笈もそういえばと顎に手を添える。
基本的に家を継ぐのは長男と決まっている。それは貴族でも農民でも、どこも変わらない。次男というのは、そういうものだ。
「ちやほやされんのは俺がレアンドの血を継いでるからで、妬まれたり誘拐されたりすんのもこの血のせいだ。なのに、将来はどっかのお嬢さんと、家のために結婚させられるんだぜ。笑っちまうだろ」
彼は笑いながら言うが、言葉の裏にはどこか投げやりな感情が浮かんでいた。きっと幼い頃から色々と苦労をしたのだと、その表情だけで窺えるものがある。
「それが嫌なんで、俺はもうこのまま家を出るつもりでいるんだ。今は金とか仕方ねぇとこあるけど、ここで色々勉強して、一人で生きていけるようにするのが俺の密かな野望なわけさ」
「へぇ。……世の中、面倒なこととか悲しいことがいっぱいあるから参るね」
「そうだなぁ……」
何も起こらなければ、今も枇杷の国にいられたかもしれない。だが、そうなれば、きっとここには来ていなかっただろう。
その分いいことがあるとまでは言えないが、悲しいことの後には楽しいことが待っていると、登笈は自分なりに納得していた。
「でも多分、ここでは楽しいことばっかだよなぁ」
眼前に迫る、青い屋根の建物。男子寮に入るところで、ライアは期待を込めてそう呟いた。
もうじき日が暮れようとしているネサラの街を、東の竜翼山脈より吹き降りる風がそっと撫でる。
頬に触れるそれを感じ、街の各所で少年たちはそれぞれ違った想いを乗せる。そうして、様々な香りが詰まった空気に変化を遂げていく。
ここはスリージ聖王国南西部、ネサラの街。世界第二位の教育機関『学習院』のある学園都市。大陸各地で躍進を続ける者達が学び育った地。
王族、貴族、平民。あらゆる身分の少年少女が、あらゆる国からやってきた者達が一堂に会し、互いの青春を競い合う。
誰かが言った。
これは、縮図であると。
妖精の消えた土地、アストライア大陸の未来がここにあるのだと。