㉕
胸糞注意。
時は遡り、異世界生活14日目の深夜… おじさんこと来栖大樹一行が脱走して2時間ほど経過した頃の野営地近所の林の中ではちょっとした戦闘が行われていた。
「くそっ 何も見えないのにコイツラ…邪魔くせぇ!」
「なになに?何が襲って来てるの?」
「唸り声を聞いた感じだと野犬かなんかだろうな」
ヤンキー君は落ちていた木の枝を振り回して牽制している。侍の職に就いているだけあって、勢いで振り回しているだけに見えるが… それでも経験になっているのか、太刀筋はどんどん鋭くなってきている。周囲を囲んでいる何かはわざとらしく足音を立て、ヤンキー君の注意を分散させていく… 野生の群れとはいえなかなかの練度を見せている。
この2人を囲んでいるのはブラッドウルフの子供であった、数は6匹。子供とはいえ普通の狼程度の大きさがあり、人間にとっては十分すぎるほどの脅威であった。
狩りの練習をしているのか、野生の獣とは思えないほど慎重に精神力から削っている。近くに親と思われるブラッドウルフは来ていなく、どうやら子狼だけでうろついていたようだ。
右手の方向から1匹のブラッドウルフが吠えながら近づいてきて、ヤンキー君がそれに反応すると 反対側から音を立てずに忍び込んできたブラッドウルフが攻撃してくる。
「ぐっ、うぜぇなこいつらはぁ!」
背後から攻撃を受け、痛みとともにやってくる苛立ち… そして見えない闇の中から襲ってくる何かに対しての恐怖心により、ヤンキー君はすでに焦燥していた。
(くそっ、野生の獣相手じゃ厳しいな。 こうなりゃこの女を囮にして俺だけ逃げるしかねえな)
「おい!どこにいる?」
「すぐ後ろにいるよぉ、怖いよぉ」
(よし、位置は確認した。後はコイツを獣に向かって放り投げてから逃げれば野生の獣なら弱い方から襲っていくだろう。 その隙に俺は…)
後方にいたヤンキーちゃんの手を掴むと、自分に引き寄せて腰に手を回す。
「こんな時に何を?」
「俺のために役に立てやぁぁ!」
腰に回した手に力を込めて 前方に放り投げたのだった。
「きゃあああ! なにを?なんで?」
「ははは!囮ってやつだよ じゃあ俺が逃げるまでの間せいぜい足掻いてくれや!」
ヤンキー君は持っていた木の枝を振り回し、風切り音を立てながら反対方向へと走り出したのだった。
これがブラッドウルフにとって普通の狩りであったならば、もしかしたらこれで逃げられたかもしれなかったが… 子狼にとってこれは狩りの練習、ただのお遊びであったため、倒されたヤンキーちゃんに目もくれず、逃げて行った男の方を追いかけ始めた。
「い、痛いよぉ どうしてこんなひどい事するの? え?どこいったの?」
声をかけても返事は帰ってこず、見えないほどの闇の中で何かの気配だけが遠ざかっていくのを感じた
「置いて…いかれたの?」
「え?どうして?」
「私ここで死ぬの?」
困り果てて固まってしまった、 歩くのも困難な暗闇で1人きり…
ウォーン
離れた所から聞こえてくる遠吠えにはっと我に返る。
「ここにいたら危ない、せめて木に登って明るくなるまでなんとか耐えないと」
手探りで太い幹の木を探り当て、時間をかけて何とか登っていく。どのくらいの高さまできたのかはわからないが、太い木の枝に跨って幹に抱きつく。そして今まで襲われていたという恐怖に震えながら声を潜めた。
「くっ、こいつらなんで俺の方に来やがった? マジ邪魔くせぇな!」
満足に見えないほどの闇の中、侍の能力なのか 茂る木を躱しながら逃げている。 追う方もそろそろ飽きてきたのか、じわじわと直接攻撃の手を増やしてきている。
「ガオオォォ!」
「いてっ! いてーなコラァ!」
左足の脹脛を爪で引っかかれ、痛みでとうとう足が止まってしまった。それでもなんとか大きな岩を見つけ、それを背にし木の枝を構える。
「オラかかってこいよ!」
周囲を囲んでいる6匹の子狼、そして先ほどの遠吠えによって呼び出された親のブラッドウルフが現れたのだった。その大物が現れた気配をヤンキー君は察知してしまう。
「なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ! これも全部あの勇者たちと王のせいだ!」
不意に大きな気配が飛び込んできて、爪を立てた大きな前足が顔面に当たる。
「がっ!」
その一撃で気を失ってしまったヤンキー君、親のブラッドウルフはトドメとばかりにその首筋に噛みついたのだった。
そして狩りの収穫に満足したのか、親のブラッドウルフと6匹の子供達はヤンキー君を咥えて巣へと戻っていったのだった。
そして夜が明けた…
「明るくなってきた、林の切れ目も見えるし早く出た方がいいのかな。でも兵隊に見つかっても殺されちゃうんだっけ… どうしよう」
それでも周囲を窺いつつも木から降り、林を抜けだすために歩き出した。
「あつつ、あちこちに擦り傷がついちゃってる 膝なんか紫色になって腫れちゃってるよぉ 痛い」
なんとか林を抜けだし、少し距離を置いてからその場にしゃがみ込み、腫れあがっている膝に手を置いた。痛む膝を癒すかのように撫でまわしていると… どんどん痛みが引いて行くのを感じた。
「あれ?腫れが収まってる? あっ もしかしてこれが治癒師の能力なの? 他の傷で試してみよう」
暗闇の中動き回ってたせいで体中に小さな傷がたくさんついていた。腕についていた傷を撫で、太ももや脛、最後に全身くまなく包み込むように治癒師の能力を使い覚醒していく。気づくと一晩中恐怖に怯え、疲れ切っていたはずの体から疲労すら感じなくなっていた。
「はぁ~ 傷が無くなるだけじゃなくて疲れも無くなるのね、これはいいかも! 私を捨て駒にしたアイツはもう放っておいて、1人で逃げてしまおう。もう知らない」
1人ブツブツと呟きながら、林から離れるように歩き出した。疲れは癒されても空腹は癒される事も無く、ふらつきながらもその場を離れるのだった。 来た方向に向かって…
そう、アニスト王国の王都方面に向かって…
2時間ほど歩いただろうか、急に足がもつれて転んでしまった。なんか意識が朦朧としている…
「あれ?立てない」
極度の緊張、恐怖、裏切られ絶望、自分のキャパを越えた魔法の行使、空腹によるエネルギー不足、もろもろの理由が重なってしまい あっという間に生命力が失われていく。すでに満足に動けないほど体に力が入らず、そのまま息を引き取った。
2人が非業の死を遂げてしまった事により、誓約に基づき アニスト王国にある召喚魔法陣はその役目を終え、静かに消えていった。アニスト王国の関係者でこの事に気が付いたものは誰もいなかった。