キミが飛ぶのは下じゃない
ナルキスに対しほんの僅かな不安を感じながらもその背中に続こうとした瞬間、後方から大きな物音がした。何か固いもの同士がぶつかる音。よく耳を澄ませばミシミシと木製の物が悲鳴を上げる音も下方から聞こえる。
振り向けばそこには氷を這いずる一体の人形がいた。
ハシゴまで人形がたどり着いたところまでは見ていたが、いびつな人形だ
。きっとハシゴの上るのにさえ難儀するだろうと高を括り油断していたのが仇になった。見れば、下には死骸に群がる虫の如く無数の人形の姿。ハシゴの前でもたつき、倒れた先陣の人形を足場にしてここまで登ってきたようだ。団子状に群がっていた人形は仲間を足場に次々にナルキスたちのすぐ後方まで攻寄ってくる。
「急げ、アメリ。捕まれば殺す殺さないの話じゃない。僕たちが人形になり、人として死んでそれで終わりだ」
ハイペースで氷の足場を作り、2人は駆け足気味に天井へと近づいていくが、まだわずかに遠い。重みに耐えきれなくなった最初の氷の足場がガラガラと音を立てて崩れていくのが聞こえたが、気にしている暇もない。今や、人形たちにとって足場などあってないようなものだ。団子状にまとまった人形たちは一つの山となり、ナルキスたちのすぐ足元で手を伸ばして呪詛のように同じ言葉を呟き、手招いていた。
「くそっ、いったいどれだけの人々をこの箱庭に閉じ込めていたんだあの女」
「おにいちゃん! 来ちゃう! 来ちゃうよぉ!」
授能をフル活用して尚、振り切れない人形の大群に思わずナルキスは悪態吐く。いつしか、ナルキスはアメリを抱きかかえるようにしてその無数の手から必死に逃れようとしていた。
あれほど分厚く、頑丈に見えていた氷の足場は酷く頼りなく見え、その一枚に遮られるのは餓鬼の如く自分たちに群がる人形たちの群れ。絶体絶命とも思えるその光景でさすがのナルキスも苛立ったように舌を鳴らした。
「あと少し。あと少しなんだ」
口調や態度では強がってはいるが、明らかに顔色が悪い。授能の使い過ぎだ。
抱きかかえられながらアメリはナルキスの首筋に汗が伝っていくのを見た。
自分がいなければナルキスはもっと迅速にこの場を脱出することができただろう。ナルキスを心の底から信じていればあのような雑談に時間を取られ、人形たちに追いつかれることはなかったであろう。
自分のせいだ、と考え出したらキリがない。
自責の念に駆られ、体が重くなるのがわかる。そう、ナルキス1人ならばこうはならなかった。
すべては自分がいたから。
アメリはナルキスの腕から逃れ、人形たちの元へ決死のダイブを試みる。
人形にさほど力はない。それならば体重の軽く、小さいアメリと言えども上空から人形たちの元へ飛び込めば一時的にでも高く積まれた山を崩すことができるだろう。
ナルキスの逃げる時間が稼げればそれでいい。
ナルキスさえ外に出れば、あのエミージュ館長を退治し自分たちを助け出してくれるに違いない。
きっと、そうきっとナルキスならば。
「なるほど、僕にすべてを委ねて捨て身の突撃か。キミもなかなか僕の相棒らしくなってきたじゃないか」
アメリの身体が一瞬の浮遊感の後、宙に固定された。
言わずもがな、ナルキスがすんでのところでアメリの襟首を掴み、玉砕を阻止したのだ。
「はなして! わたしがいるとおにいちゃんはーー」
「ーーこの僕がキミがいる程度で遅れを取ったとでも? 勘違いするのはよしたまえ」
空を蹴り、バタバタと暴れるアメリにも変わらず憎まれ口を叩き、不敵に微笑むナルキス。だが、心なしかその笑顔にはまた違った意味が込められているようにアメリは感じた。
「確かに仲間のために命を賭す、僕のために命を犠牲にしようとしたのは賞賛に値するが、違う」
「え?」
ナルキスは大きくアメリを下に振り下ろし、その勢いのまま天高く、閉ざされた真っ白な天井に向けて力一杯投げ上げた。
「キミが飛ぶのは下じゃない、上だ」
くるくると回転しながら宙を舞い上がるアメリはその一瞬に壁を背に氷の床に倒れこむナルキスの姿を目にした。そして、力尽きた彼を無数の人形で出来た茶色い波が飲み込むのも同時に。
「おにいちゃんッッ!!」
いくら叫ぼうがアメリの声に息を吹き返し、暴れ狂うナルキスはいるはずもなく。力一杯投げられたアメリは勢いのまま天井の蓋を破り開け、薄暗い部屋に投げ出された。
「うっ……い、いたい……」
箱庭に出て尚、ナルキスに投げられた力は殺しきれず派手に音を立てていくつかの装飾品や家具をなぎ倒し、数回床を転がってやっとその勢いが止めることが出来た。
激しく打ち付けた身体中がズキズキと痛む。我慢しようとしても自然と涙が木の床に斑点の染みを作っていく。
「泣いてる場合じゃない……もん! おにいちゃんたちを助け……なきゃ……」
次々と滝のように溢れ出す涙は恐らく、痛みだけによるものではないだろう。アメリはグッとそれを袖で力強く拭ってナルキスたちがまだ閉じ込めらたままの箱庭を睨みつけた。
その矢先、この部屋にある唯一のドアが不気味にも甲高く軋む音をさせてゆっくりと開かれた。
「あらあら……」
あれだけ派手な音を立てればバレないはずがない。
優しく慈愛に満ちた笑顔を貼り付けたエミージュは頬に手を当ててアメリを悩ましげに見下ろす。
「お人形さんが勝手に外に出ちゃダメじゃない」