脱出は簡単……
「それってつまり……おにいちゃんにはもうここを出る方法がわかってるってこと?」
「わかってるも何もキミだってさっき見ただろう」
ナルキスは呆れ顔でそう言うと人差し指を立てて上を指した。
「上から出る。恐らく、この世界は異界と言うわけではないはずだ。そうだな、あの醜女の管理する箱庭とでも言おうか。とにかく、現状わかっている外界との繋がりが明確なのはそこだけだからな」
「えっと、おにいちゃんって頭……悪いの?」
「なっ……!」
「だって上から出るなんて無茶だもん! あんなに高くてあんなに遠いんだよ! おにいちゃんに肩車をしてもらったってえいって投げてもらったってぜったい届かないもん!」
「頭が悪いのはキミだろうが。……いいか、僕が斧を投げるのをキミも見たはずだ」
そう言いながらナルキスは2人の座る場所の対角、部屋の隅の花瓶を指差した。
「キミにはあれがどう見える?」
「どう見えるって……さびしそうな花瓶?」
花を生けられることもなく、部屋の隅の戸棚の上で埃を被っていた花瓶。役目を全うすることもなく、忘れ去られてしまったように感じてアメリは素直に感想を述べる。
「そうじゃない……やれやれ」
どうやら正解ではなかったらしく、ナルキスは小馬鹿にしたようにアメリを見遣りその花瓶を手にして、またアメリの横に座った。
たぶん、ナルキスはアメリに頭が悪いと言われたことを根に持っている。その証拠に花瓶を持ってきて尚正解を出せず、瞬きをするばかりのアメリを鼻で笑ったりするのだ。
子供とはいえ、その態度に不快感を覚えないはずもない。アメリはむっと眉根を寄せた。
「その花瓶がなんなの? ハッキリ言ってよ。おにいちゃんはハッキリしない人がきらいなんでしょ?」
「まったく……キミのような子を育てた親の顔が見たいものだな。子供は大人を敬うべきだ」
いちいち格好つけた所作で首を振り、ナルキスは花瓶を手の上で転がす。
「この花瓶、あそこにあった時と僕の手にある時ではどうだ? 少しは違って見えるだろう?」
「ううん、やっぱりさびしい花瓶だよ。せっかくきれいな花瓶なのにかわいそう」
「違う、そうじゃない。僕が言いたいのは大きさのことだ」
「大きさ?」
「そう、大きさだ。キミの目がおかしくなければこの花瓶はあそこの棚に置かれていた時よりもこうして僕の手に、近くで見た時の方が大きく感じるだろう」
「う、うん……それって当たり前じゃないの? だって街にあるおっきな時計台だって遠くから見れば手で掴めそうなぐらいちっちゃいもん」
「あぁ、当たり前なんだよ。遠い物は小さく、近い物は大きく。遠近法が働くのは当たり前のこと。……それがあの上に投げた斧には働かなかった」
「へ? え? 働かないのはおにいちゃんじゃーー」
「ーー今、それは関係ないだろう。それに僕は働かないんじゃない。働かせてもらえないんだ」
正鵠を射られ、思わずカッとなったナルキスは取り繕うように短く咳払いをした。
「いいか、あの斧は色や形は勿論のこと大きさも何一つ変えずに僕の手を離れ、天を登って行ったんだ。僕だって考えなしに投げたわけじゃない。元々は距離を測るためだったんだが、思わぬ収穫を得ることができたわけだよ」
「それって……え〜っと……」
「さっきここは箱庭のような場所だと言ったろ? あのエミージュとかいう美術館館長のイカれた趣味の悪いな」
「う、うん」
「ここが異界ではなく、現世。僕らが小人となって箱庭に入れられたと考えればいい。確かに小人のままでは箱庭とはいえ、この高そうに見える壁をよじ登り外に這い出すなんてことは難儀するだろう。だが、もしも上に行くにつれて身体が徐々に元の大きさに戻っていくならどうだ?」
そこまで言われてアメリもハッと目を丸くする。
「ほら、ここを脱出するなんて簡単なことだろう」
「うん、うんうんうん!」
得意げに前髪をかき上げたナルキスを讃えるようにアメリも頭が取れそうなぐらい首を縦に振った。
「それで! 上に登る方法は考えてるの?」
四六時中エミージュに監視されているわけではないとはいえ、まだあの人形たちがいる。2人が悠長に壁を登っている時間など取ることは出来ないだろう。
安堵と期待を胸に問うアメリに依然としてナルキスは自信気な態度を崩さず、高い鼻を上に向けて鼻を鳴らした。
「そんなもの考えてるわけないだろう」
長い沈黙が2人の間に流れる。
いったい、この人は何を言ってるのだろうか。何故、そんな得意気に一切の不安も垣間見せるわけもなく言い切れるのだろうか。
「おにいちゃん……嘘だよね?」
「嘘? 僕は嘘が嫌いなんだ。美しくないからね」
無言のまま、アメリの小さな拳がナルキスの腹に沈んだ。




