いっぱい……いっぱい……
「のぅ、マリー。なんで母親を殺そうとしたんじゃ? それにお前は『返して』とか言うとったの」
小さな身体を伸ばしきり、力尽きたように倒れているマリーの横に胡座をかいて座り、優しい声色で尋ねた。
深い霧の晴れた満月の下、うっすらと肌寒い夜風に吹かれながらしばらくの沈黙が流れ、か弱い声でマリーはぽつりぽつりと小さな口を動かす。
「……マリー? それは誰の名前?」
「わからん。世間じゃお前のことを皆、切り裂きマリーと呼んどった。本当の名前はなんというんじゃ?」
「覚えてない。覚えてないから……マリー。マリーはマリーでいい」
幼いながらに父親は死に、母親は自分を捨てて出て行ってしまった。
極度のショックに陥り、マリーは愛する父親から何と呼ばれていたのかさえ忘れてしまっていた。
「ママのお腹にはマリーの弟か妹がいるってパパが言ってたの」
「ほう、妊婦じゃったか」
「パパはすっごい楽しみにしてた。マリーはお姉ちゃんになるんだぞっていっつも笑顔で言ってた」
無感情に瞬きをしていた瞳の奥に僅かな曇りが見え始める。
「パパはいっつも嬉しそうにママのお腹をなでなでしてた。元気に生まれるんだぞって。それなのにママは……パパとマリーを置いていなくなっちゃった。パパと一緒にいっぱい探した。灯りを持って毎日、お外が暗くなってもずっと」
挑発、作戦ながらユウはマリーの父親を、そしてマリーを侮辱してしまったことに後悔し、唇に力を入れて目を瞑った。握りしめた拳が震えるのを抑えるために硬い石畳にそれを押し付ける。
「雪がいっぱいいっぱい降っててもパパはマリーを置いてママを探してた。もしかしたら魔物に襲われたのかもしれないって。悪い人に攫われたのかもしれないって」
「それで、お前の親父さんは……病に倒れたっちゅうわけじゃな」
マリーは少しだけ目を伏せてそれに応える。
「パパが死んじゃう前に言ったの。一度だけでもマリーとお腹の子が一緒に並んでる姿を見たかったって。すごくいっぱい泣いて、マリーをすごくいっぱい抱きしめて」
安い慰めの言葉などいくら言っても無駄だ。
ユウは無言で寝転ぶマリーの頭を撫でる。細く柔らかい髪に包まれた頭は頼りなく小さい。
「パパが言ってたの。ママはきっとギルティアにいるって。いなくなる前にギルティアから来た男の人と仲良くしているのを見たって」
それが分かっていながらマリーの父親がここギルティアまで探しに来なかったのは母親を愛し、信じていたからであろう。頭では確信に近いものがありながら、事故の可能性を信じ貫いた。それが死の淵、漏れた本音がマリーを復讐の鬼に変えてしまった。自身の名を忘れ、断片的な記憶障害を負いながらも彼女は微かな記憶を頼りに、父親に赤ん坊の顔を見せるために単身、ギルティアに訪れ探し続けていたのだ。
「母親を憎んどるんか?」
「顔も思い出せないぐらい嫌い。でも……好きだけど嫌い」
やはり、復讐はろくな結末にはならない。
復讐を終えてスカッと気分が晴れたことなどなかった。
仮にマリーが本当の母親を見つけ出し、復讐を成し遂げたとして彼女は心の底から父親の墓前で笑っていることができたのだろうか。
殺人を肯定するわけではないが、マリーもまたこの腐った世の中の被害者なのかもしれないとユウは思う。
「マリーはあなたに会えてよかった。頭は痛いけどね、すっごく心地いいの」
手のひらにぷくっと腫れ上がった膨らみを感じる。
その手を小さな両手で包み、微笑むマリー。初めて見る彼女の晴れやかな笑顔にユウの目頭がジンと熱くなった。
「マリー……罪を償うんじゃ。どんな辛い罰を受けたとしてもしっかり反省して己のしでかした事の重大さに気付き、悔い改めるんじゃ。どんなに時間がかかっても構わん。それで戻ってきたら……生まれ変わってでもワシの元に来たらワシがお前の『パパ』でも『ママ』にでもなんでもなってやる」
細めたマリーの目元から大粒の涙が零れ落ちる。その一筋の涙から堰を切ったように次々と涙が流れ落ち、冷たい地面にシミを作っていく。長年蓄積した悲しみとユウの優しさに触れた安堵からやっと年相応の子供らしくわんわんと大声で泣き続けるマリーの頭をユウもグッと涙を堪えながら細い女の手で優しく撫でる。
静かな夜更けの街、一層に暗く静かな裏路地の中でその泣き声はしばらく続いた。
「いました! ヨーコさん、ビスチェちゃん! こっちです! ユウちゃんいましたよ!」
泣き疲れて眠ってしまったマリーの頭を胡座をかいた膝の上に乗せてその安らかで無垢な寝顔を眺めていたユウの耳によく聴き馴染んだ声が聞こえてきた。
頭のサイドテールを揺らし、小走りで駆けてくる桃色の髪の少女はシュシュに違いない。
膝の上で寝息を立てるマリーを起こさぬように人差し指を唇の前に当てるユウ。
パァンッ!
顔を上げた矢先、痛烈な音が鳴り響いた。
目を見開き、固まる。後に熱を帯びた頬をさすり、ユウは自分が叩かれたことを察した。