一筋の光明
しくじった。
この一言に尽きる。
服の裾を破いてその刺し傷が露わになる。傷口は小さいが思ったよりも深く、出血は夥しい。
その破いた布切れを腰に巻いて止血を試みるが、立ち所に巻いた布は真っ赤に染まっていった。
「ねぇ、返して。返してよ……ママ」
「ママぁ? ワシはお前みたいな不良娘を産んだ覚えも腹ました覚えもないわ」
どうやらマリーは顔を見られて尚、逃げるつもりはないらしい。
確実にユウを殺せると思っている自信家なのか、または子供らしく無垢で無謀なだけなのか。
そしてユウのことを『ママ』と呼んだ。
心当たりがないのは勿論、この身で男に抱かれるなど想像するだけでも気色悪い。
「ほれ、もいっちょ来んかい! ワシはまだピンピンしとるぞ!」
なんにせよ、もう一度この闇に溶け込んでしまった殺人鬼に一撃を喰らわすチャンスを作らなければどうしようもない。
あれほど覚悟し、警戒していたにも関わらずユウはそのチャンスを棒に振るうどころか事態は悪化。ズキズキと痛む傷口から蝕む痛みが焦りをもたらす。
今一度、マリーの凶刃が自信に襲いかかるよう挑発気味に言うが、暗闇からは無邪気に笑う声だけが聞こえてくる。
それはそうだ。この出血量、毒は塗っていないだろうが放って置けば勝手に野垂れ死ぬ。そうでなくても自由に身体を動かせなくなるのは必至だろう。ならば、危険を冒してまで相手にトドメを刺しに行くなど愚の骨頂だ。
そうなれば次に試みなくてはいけないのはこの場からの逃亡か。
息巻いて切り裂きマリーを捕まえるなどと宣っていたユウとしては情けないことではあるが、助けを求めに警邏隊の元へ行くのが一番の上策と言っていい。この場で無様に死ぬわけにもいかないし、死ねば結果的にシュシュとの約束もセルシオとの約束も同時に違えることになってしまう。それだけは避けたい。
「……が、そう上手くもいかんじゃろうな」
独言る。
マリーが消えたのはユウの来た大通りへと続く道の方向。背後には苔むす石の壁が聳えるばかり。相手が子供とは言え、真横を通り抜けようとする獲物をみすみす見逃したりはしないだろう。
存外、策略家なのかもしれないとユウは舌を鳴らす。
「こりゃ、いいヒットマンになるぞお前」
野生動物のように身を隠し、嘲笑うように獲物が弱り死ぬのを待っている。理にかなった戦法。なればますます相手の手の内を明かさなくてはならない。が、策を講じるにも時間が足りない。出血量から見てそう長くは動けそうもなく、その証拠にこうして思考を巡らせている最中もぼんやりと頭に霞がかかるような瞬間がある。
何も考えられなくなる前に早く。痛みと焦りで粗暴で愚直に拳を振り回すだけになる前に早く。
意味もなく、ユウは空を見上げる。
あの襲われた瞬間、雲に隠れていた満月が顔を覗かせた。だからこそ、この暗く湿った路地裏でマリーの顔を確認することができた。
「……満月が何か関係があるのか?」
タイミングを見計らったかのような静かで痛烈な一撃。満月、光、暗闇……引っかかる。
「……のぅ、ワシをママっちゅうたがそんなにワシはお前のママに似とるんか?」
もう少しで何かがわかりそう。そのために、成り立ちつつある仮説のためにユウは再度、試みる。
「知らない。覚えてないから」
「覚えてない? なら、何故ワシが似とると……」
「ママはすごくキレイな人だったってパパが言ってたから」
「なら、そのパパに聞けばいいじゃろ。この世界にあるか知らんが、写真やらも残ってるかもしれんし」
「パパは病気で死んじゃったから」
冷淡だったマリーの声が僅かに揺れる。
しめた、とユウは薄い笑みを浮かべた。
「てこと、なんじゃお前のパパはそのキレイなママに逃げられたということじゃな」
無言の間が静かに流れる。
地雷を踏んだと言えよう。
少女の幼心に深い傷を残した出来事。相手は無垢な少女だ。それを掘り下げようものならば誰それに糾弾されてもおかしくはない。
だが、この場においてそれは絶好の好機を意味する。
「はん、お前のパパも大したことないやつじゃの。女に逃げられるのはいつだってその男が情けないからじゃ」
心にも思っていないことだとしてもユウは尚もマリーの愛する父親への侮辱を止めない。
ケンカをするにあたって一番してはいけないことがある。
それは怒りで我を忘れること。
時に怒りは本人が思いも寄らぬ力を発揮することがあるが、その反面思考は疎かになり、行動は単純化する。例え、それが一撃で相手を沈める破壊力を持っていたとして避け、捌くのは実に容易い。
しかしながら、迎え撃つ方にも求められるものがある。それは相手の怒気込もる気迫に負けない精神力。
それは年の功、ケンカに明け暮れた少年時代を送り半生を極道に染めたユウならば問題はない。
「パパをバカにしないで……!」
ユウの思惑通り。
背後で血が地面に滴る微かな音を聞いた。
思わず笑みが溢れでる。