月明かりの下
暗く狭い路地道を息を乱して駆ける影が1つ。
真っ赤なドレスに滑らかな亜麻色の髪が映える美しい女だ。
厚い雲に月は隠れ、大通りから外れた路地裏には道を照らすものは何1つない。ぼんやりと視界に映る道らしきものをカツカツとヒールを響かせて女は懸命に走っていた。
「な、なんなのよ! 私が何をしたっていうのよ! あんたなんて知らないんだから!」
何かに怯え、逃げるように女は叫び、足を止めることなく動かし続ける。顔面は蒼白、丁寧にされていた化粧は見る影もなく崩れ落ちてしまっている。
「あぁもうっ! なんで行き止まりなのよ! 誰か! 誰か来て!」
やがて闇雲に走っていた女の行く先を無情にも阻む厚く冷たい石の壁。
怒りをぶつけるように女はその壁を何度も叩き、必死に声を張り上げて助けを呼ぶが、静寂は続く。
路地裏には女の吐息だけが響き、他に迫る者はない。それでも女は視線の先を正面に固めたまま肩を震わせ、恐怖していた。
「な、なによ! 来るなら、来るなら来なさいよ!」
錯乱と我慢の限界、女は太ももに隠していた短刀を抜いて虚勢の声を張り上げる。
手のひらに滲む汗でナイフを滑らすまいと固く両手でそれを構えるが、小刻みに震えたそれでいったい何を撃退できようか。
それを嘲るようにクスクスと闇の奥から小さな笑い声が聞こえてくる。
「何がおかしいのよ! 私を誰だと思ってるの! 私はーー」
ぬぷ……ッ!
と、静かに女の体内に冷たい異物が差し込まれる。
壁を背に構えていたはずが、それは紛れもなく背後から訪れた。
「あっ……かはっ……!」
ぼたぼたと流れていく血液。全身から体温が奪われていくのを感じ、女は地面に膝から崩れ落ちていく。
「た……助け……助けてッ……」
それでも女は懸命に地を這い、鮮やかなネイルが施された爪を石の冷たい地面に突き立てて襲撃者から逃れようとした。
だが、それは許されない。
緩慢な足取りで近づいてくる影は女の髪を掴み、仰向けに裏返す。
「あ、あんた……誰なのよ……」
厚い雲から隠れていた月が覗いている。その明かりで影が明らかになろうとしたその時に無機質で冷たい刃物が女の腹部を切り裂いた。
◇◆◇
輝く汗、荒む呼吸。雲一つない快晴の青空から真っ逆さまに降り注ぐ太陽光を浴びてユウは堪らず首筋に伝う汗を袖で拭った。
「野菜や果物はどうじゃー! リッタ青果店の採れたて新鮮、どんなグルメにだって舌鼓を打たずにはいられない! 今ならとびきり安くしとくぞー! ……おっ、そこの奥さんどうじゃどうじゃ! どれもこれも見事なもんじゃろう!」
シュシュとの盃を交わし、セルシオの墓前にて決意を表明してしばらく、ユウの傷もクララの治療の甲斐あってすっかり回復した頃。元気に声を上げて八百屋の売り子をするユウの姿は道行く人々の視線を奪っていた。
うら若き乙女が汗だくになりながらも活発そうな、人懐っこい笑顔を振りまいて働く様は成人男性には惹かれるものがあった。
「お嬢さん、今日のオススメは?」
「う〜む……なんじゃろうなぁ。これなんかはどうじゃ? 色艶はいいし、水気もある。カブか大根のようじゃが、煮物とかにすればたぶん美味いじゃろう」
「じゃ、じゃあ僕は果物を1つ貰おうかな!」
「ん〜? 1つっちゅうてもこのザルに乗っとるどれのことじゃ? 果物にも種類も好き嫌いもあるじゃろうし……」
「おい、テメェ! ユウちゃんを困らせてんじゃねーぞタコぉ!!」
「うるせーぞナス頭! ……コホン。では、そのザルの物を全部貰おうかな」
「おぉ! まいどあり! 恩にきるぞ兄ちゃん!」
類稀なる美貌に上気したほんのり赤い顔。
魅了と見栄によりザルいっぱいの果物を買うことになってしまった若い男だが、その顔はどこか満足げである。
「また来てくれ!」
「ほ、ほわっ!」
感極まって男の手をギュッと握りしめたユウに男は紙袋から覗くリンゴらしき果物と比べても遜色のないほど顔を真っ赤にし、奇妙な悲鳴をあげた。
「お、お、おおおお嬢さん! 私も買うぞたくさん買うぞ! こんな若者に負けとられん!」
それを取り囲むように眺めていた男たちは負けじと身を乗り出して店頭に並ぶ品物を豪快に買い漁っていく。
今日もユウの働く店は大繁盛であった。
「お疲れ様。ユウちゃん、ありがとうね。バイト代、ちょっと色つけといたから」
「いや、ワシも楽しんどる。こんな真っ当に働くことなんて今までなかったからのぅ」
人もまばらになる夕方過ぎ。店頭にあったあらかたの品を売りさばいた後、店の奥で襟首をはためかせて風を送っていたユウの元に店主である細身の男が皮袋を手近の台に置いた。
「しかし助かるなぁ。ユウちゃんみたいな売り子がいるだけでこんなに店が繁盛するんだもの」
「それは違うじゃろ。この店の品物がいいからじゃ。例え女が売っていようと粗悪品を売りつける店に人は寄り付くまい」
「いやいや、これはユウちゃんのおかげだって! いつもはいつ潰れてもおかしくない、閑古鳥が鳴いている状態なんだからさ!」
「そうなのか? それじゃ、有り難くお褒めの言葉に預かる」
「そうそう!」
パタパタと襟を掴んで風を送る際、ちらちらと見えるユウの胸元に鼻の下を伸ばしながら店主リッタは頷く。
「それでさ……明日もなんだけど……」
「あぁ、すまんのぅ。明日は別の仕事が入っとるじゃ」
「な、ならこの後、食事にでも! 近所に美味い飯屋がーー」
「悪いのぅ、約束があるんじゃ」
肩を落とすリッタにユウは苦笑いを浮かべると給料の入った皮袋を手に立ち上がった。
「ま、また手伝いに来てね! お給料はずむからさ!」
「おう、またの」
夕日を背景に店を離れていくユウの背中をしばらく名残惜しそうに眺めた後、リッタは肩を落としたまま店の片付けを始めた。
「あーあ、ちくしょー可愛かったなぁ……」