姉妹の盃
そんなことなど少しも気にした様子もなく、ユウは朽ちた木材や瓦礫の山を乱暴に足で押し退けるとそこに胡座をかいて座った。
そしていつの間に拾ったのか物盗りから辛うじて逃れていたのであろう赤錆た聖杯らしき物に酒を注ぎ、シュシュが来るのを待つ。
「へぇ? いったいなんなんですか?」
よもや今から宴会でも始めようと言うわけでもないはず。酒を飲んで今夜のことは忘れようと言うなどそれこそユウらしくない。
呼吸もままならぬような嗚咽は収まったが、未だ涙でまつ毛を濡らしたままシュシュは訳もわからず首をひねり惚けた声を上げた。
「座れば……いいんですよね?」
返答はなく、その代わりにいつになく真剣な眼差しでユウはそれに応える。
可憐な少女の姿でありながらその様はまるで大軍を率いて来た歴戦の長のように、数秒と目を合わせられない気負いしてしまいそうな眼光におずおずとシュシュも塵まみれの床を手で軽く払ってその場に正座した。
それはちょうど酒の入った聖杯を挟むように向かい合わせの形になった。
「ワシはのぅ、あれからずぅ〜っと考えてた。考えに考えて、ない頭を悩ましてワシはいったいどうしたらいいのか。そんなことをずっとな」
人気のない静かな教会にユウのぽつぽつと話す小さな声は不思議なくらいよく響いた。
「悔しくてたまらん。友を救えなかったことも仇を討つことさえできなかったことも。そしてこの腐りきった世を正せないことを。ワシはこの全てを今まで自分の力でなんとかできると思っとった。ガキの頃から培ったケンカの強さ、それだけは自信があった。それを今日、見事に打ち砕かれ己の無力さを痛感させられた。男の身体じゃない、そんな言い訳じみたことは言わん。例え、そうだったとしてもワシはあの時、お前が来てくれなければ死んどったじゃろう」
ユウの握った拳が小刻みに震えているのに気付き、その怒りと悔しさが自分が思うものより一層大きいものであると察する。
「が、やられたままってのはどうもスッキリせん。このまま泣き寝入りなんて漢が廃るってもんじゃ。ならば、ワシはどうしたらいい。友が殺され、それが許されるような世を治すにはどうしたらいい。……学もなく、大層な絵を描いたこともないワシの頭で考え付いたのはこれが精一杯じゃった」
こくり、とユウの喉が鳴る。
「ワシはギルドを立ち上げるぞ。組を持ち、仲間を集め、力をつけてこの腐った世をぶっ壊したる」
「ギルドを……作る……ですか……?」
「おう、子供みたいな考えじゃが、ワシにはこれ以上は思いつかん。じゃからの、シュシュ」
そこで一呼吸置いて、ユウは真っ直ぐにシュシュの目を見つめた。
「ワシの『兄弟』になってくれ。血の気の多いワシじゃ、お前みたいな冷静に物事を判断できる人物が傍におると心強い。……なにより、ワシが心根から信頼できるのはお前だけじゃからな」
言ってからユウは照れ臭そうに鼻の下をかいた。
そしてゆっくりと聖杯に口をつけ、酒を一口だけ含むとそれをシュシュに差し出した。
「これは誓いの盃じゃ。ワシの願いを聞いてくれるのであればこの酒を受け取ってくれ」
天井に空いた穴から僅かに覗く月明かりだけがこの部屋を照らしているだけ。そのはずなのに差し出された酒に赤く腫れ上がった瞼、涙と鼻水にまみれた自分の顔がはっきりと見えた気がした。
「ユウちゃん……一言だけ言わせてください」
シュシュは真っ白な両手を伸ばし、その酒を受け取り微笑む。
「兄弟じゃなくて『姉妹』だと思います」
それだけ言うとその差し出された酒にシュシュは花の蕾のような唇をつけそっと口に流し込んだ。
「ほぉ、なかなか立派なもんじゃないか」
ギルティア下層、見晴らしの良い丘の上に立てられた質素な墓石を前にユウは満足げに頷いた。
墓石にはセルシオの名。そこはユウとセルシオが始めて顔を合わせた出逢いの地である。
近くにはグリフォンの石像がある噴水広場、眺めれば建ち並ぶ壮観なギルティアの街並み。下層ながら見晴らしの良いこの場所はなかなかの優良地と言えよう。
「頼んでみるものですね」
墓前に花束を備えて手を合わせていたシュシュにユウはまた大きく頷く。
あれから数日、セルシオに返す金と自身が持つ全財産を引き換えにこの場所に墓を立ててくれないか、というユウの願いは素早くテレサの助力もあり叶えられた。
それが今日、墓参りとお披露目という形で2人はこの場に訪れたわけだが、肝心のテレサの姿はない。どうやら、溜まりに溜まった仕事を片付けるのに精一杯らしい。帰りにお礼の言葉でもかけに顔を出してみるかと考えながらもユウは手に持っていた酒瓶の蓋をあけた。途端、辺りに芳しい香りが漂う。
「ほれ、この酒は美味いぞ。たらふく飲め」
「うぅ……なんかこんなこと言うのもあれですけど……そのお酒じゃないとダメだったんですかぁ?」
「阿呆、死んだ人間には敬意を表しなくてはならん。これぐらいのことは当然じゃ」
それは酒場であまりの美味さにユウが感激したあの高級酒。
墓の完成を聞き、その足であの酒場のマスターに頼み込んで渋りながらもなんとか売ってもらったものである。言っても最高級品、勿論、この墓を建てるのに日銭を稼ぐような生活をしていたユウ達に代金を支払うような資金力はなく、後払いという名の借金。その額は耳にしたくもないような額に膨れ上がっているのだが、ユウはそれを惜しみなく墓石へ豪快に注いでいった。
乾いた石に水気が帯びていくのを恨めしそうに眺めてシュシュはうぅと小さく唸った。それもそのはず。ベラムとの戦闘で大怪我を負ったユウが働くことなどできるはずもなく、生活費を稼いでいたのはシュシュ。加えて、その怪我のために通っているクララへの治療費という日々増えていく借金を払うのもシュシュである。
日々の労働に疲れた身体を癒すため少しぐらい酒を飲んだってバチは当たらないだろうが……。
「あの……ちょっとぐらいはわたしたちで飲んでも……」
「ダメじゃ、あんなちぃとの酒で泣き暴れたやつにこんな大衆の場で酒を飲ますなんて人様に迷惑がかかるじゃろうが」
盃を交わした夜。あの日、たった一口、含む程度の酒で大暴れしたシュシュを宥め、寝かしつけるのに大変な苦労をしたのだ。
苦々しげに顔をしかめ、ユウは遮るように首を振った。
「ユウちゃんのケチ! バカ! アホー!」
「何を言われようとこの酒はセルシオのもんじゃ。だいいち、舐める程度で意識を飛ばすようなやつにこの酒を飲ますのは勿体無いじゃろうが」
「うぅ……なんなんですか。これじゃあ姉妹じゃなくて親と子ですよ。ユウちゃんはわたしのお母さんですか!?」
実年齢的にはそれぐらい離れているのでユウはそれに肯定も否定もせず。
「しゃんとせんか。今日という日を境にワシらは馬鹿みたいにでっかい目標へむけて踏ん張らないといかんのじゃ。それじゃあセルシオにも笑われてしまうぞ」
「……やっぱりお母さんです。はい、はいはいわかりました! しゃんとしますよ」
それでもやはり名残惜しそうに墓石を伝い、地面に染み込んでいく酒を眺めてシュシュは重そうに腰を上げた。
「よっしゃ、セルシオ見とれ。必ず、お前の仇を取ったる。そして、二度とお前のような者が出ないよう気張る。じゃから、見守っといてくれ。ワシらがその野望を成し遂げるまで」
「はい、だからセルシオさんは安心して休んでいてください」
無機質な墓石に2人して語りかける。
セルシオの言葉は返ってこないが、吹き抜けていった風に、備えた花束が少しだけ揺れ動いた。
それはまるで感謝、そして激励されているかのように2人の目には映ったのであった。