届かぬ憎悪
意識が朦朧とする中、怒りと闘志を燃やしながらも全身がその意志に反するように動くことを拒む。
タイマンのケンカにおいては負け知らず。負けることなど考えたこともなかった。
掠れ行く視界、激しく脈打つ鼓動。今すぐ逃げ出せと本能が警笛を鳴らすが、それも叶わず。眼前の相手から逃げ出すには負傷を受けすぎた。とうに手遅れなのだ。
力の抜けた足がフラフラと足踏みをし、もたれかかるようにユウは背中を家屋の外壁に預けた。
負けること自体は初めてなわけではない。ただ、何年、何十年ぶりだろうか。圧倒的な力量差を見せつけられ、到頭、己の拳が相手に届かず終わる無様な負けっぷりは。
「……こん……ちく……しょ……め……が……ッ!」
言葉さえ発することも辛く、虚勢も息絶え絶え。最早、虚勢にもなっていないが、ユウは首筋から血を大量に滴らせながらベラムを睨みつけた。
「素晴らしいな。これこそ俺が求めていた眼。俺が求めていた理想の女だ。怒りと怨念のこもった蔑むような強い眼光。あぁ、素晴らしい、素晴らしいぞ。ゾクゾクするなぁ〜おい。いやはや、今日という日にこんなにも素晴らしい女に巡り会わせてくれた神に感謝してもしきれん」
呼吸が乱れる。視界は白く、今にも倒れてしまいそう。
鼻先数センチで自分の顔を覗き込む醜悪な相手の顔さえはっきりしない。
最後の命を振り絞るようにユウは手を伸ばし、血塗れの拳をベラムの頬にぶつける。しかし、それはとても反撃とは呼べる代物ではなく、赤子が親の顔を撫でるようなか弱く、儚い一撃。
ぺちゃん、と力なくベラムの頬に沈んだ拳はそこに自身の血を擦りつけるような形でだらんと滑り落ちていく。
「ふっ、ふふ、ふはは、いかんいかん。嬉しすぎて本気で逝ってしまいそうだ。そうかそうか、まだお前には戦う意思があるのだな」
焦点の定まらない瞳、壁に寄りかかったままのユウの腹に幾度となくその剛拳が叩き込まれる。
ミシミシと木の壁が悲鳴を上げる。悲鳴さえ漏らさず殴られ続けるユウの姿は最早、サンドバッグと何ら変わりがなく、時折血反吐を飛び散らせるだけだった。
「おっと、死ぬなよ。死んでは困る。まだ、俺たちは婚前じゃないか。ドレスが似合うように顔は傷つけてはいない」
これほどまで拒絶され、破壊した相手を尚も自身の物にしようとしているのか、ベラムは立つことさえままならないユウの髪を掴んで口元を垂れる血を舐めとり、笑う。
振り払う気力もない。近寄るなと叫ぼうにも声も出ない。
このままベラムに蹂躙されようが、決して抗うこともできないのだろうと諦めかけたその時、視界の隅に飛来する黒い影を捉えた。
ゴッ! っと鈍い音を響かせ、ベラムの首が横に吹き飛ぶ。
無意識に離された手、支えをなくしたユウは尻餅をつくように地面に座り込むと死力を振り絞って地に転がるその飛来物に目を落とした。
鉄球だ。
「ユウちゃんから離れてください!」
目に涙、額に汗を浮かべ肩で息をするシュシュの姿がそこにあった。
いったいあれほどまで苦難していた鉄球を投げたのは他でもない、火事場の馬鹿力とでも言うのか。
鉄球を顔面、それも不意打ち気味に受けたベラムのダメージは計り知れないものだろうと誰もが期待したが、そんな期待は水泡となって消え失せた。
多少なりとも痛そうではあるが、軽く頬をさする程度。不可解なのは恍惚の表情を浮かべ、シュシュを眺めていること。
「逝った、逝っちまった。これは卑怯だろ、反則だろう。たった1日、ほんの数時間の間にこんなにも素晴らしい女に2人も巡り会えるなんてよ」
じんわりと股間に染みを作り、ベラムは呼吸を荒げて鼻を膨らませる。
「い……いかん……シュシュ……」
ベラムの異常性を身を以て知ったユウだからこそ、わかる。
シュシュが自分と同じ目に合わされるかもしれないと必死に立ち上がり、または声を上げようとするが、まるで自分の身体ではないかの如く、身動き一つ、大声を出すことさえできない。
自身の無力さに呆れ、嘆きユウはシュシュに躙り寄るベラムの背を見送ることしかできなかった。
「お楽しみの所悪いのですが……」
今にも襲われてしまいそうなその時にシュシュの後方から初老の男が道を阻むように前に出た。
間違いない、あのベルセルククレフターとの戦いの時に監査委員をしていた初老の男だ。後ろで結わえた白髪、品格のある口髭、老齢ながら鋭い眼光を放つあの男。よくよく、見ればシュシュの後ろには何人もの人影が見える。その中にはあのテレサの姿もあった。
「お言葉ですが、これは重大な『規約違反』でございます、ベラム様」
紛れも無い。シュシュの後ろには控えているのは全てギルド管理協会の者たちだ。
初老の男がベラムを足止めしている間にその傍を潜り抜け、シュシュはユウの元へ走り寄っていく。
それに反応し、咄嗟に身体を動かすベラムだが、素早く周囲を協会員に囲まれて渋々とため息をつき、首を振る。
「なんじゃ……逃げたんじゃ……なかったんかい……」
「ユウちゃんを見捨てて逃げたりなんかしません! 助けを呼んできたんです!」
「はいはーい、どいてどいて〜」
遅れて人混みを掻き分け、ユウの元へ続けて現れたのはクララだ。
「あ〜……あんたって死にたがりなわけ?」
薬箱を広げ、悪態を吐きながらもテキパキとこの場でできる応急措置を施していくクララの横でシュシュはユウの手をぎゅっと握りしめた。
どうやらギルド管理協会だけでなく、状況を先読みして医者まで用意してくれていたらしい。必死に街中を駆け回っていたことを証明しているかのようにその手は汗ばんでいた。