匕首
「殺すか……」
カイルの冷酷な言葉にユウは驚く素振りも見せずに夜空を見上げた。煌びやかな街の路地裏から見上げた空は酷く狭くて、星の瞬き1つ見つけることも叶わないばかりか夜空を煌々と照らす月さえもが暗雲に隠されてその姿は見えない。
空は完全な闇だ。
奇しくもこの幼い少年、カイルの心模様を現すかのように鈍重な夜空が頭上いっぱいに広がっている。
「人を殺したことはあるのか?」
「……ないよ」
「動物を殺したことは?」
「ないよ……かわいそうじゃないか」
「けっ、可哀想か。何故、そう思うんじゃ?」
カイルは少しの間、黙りこくりやがて俯き気味に呟いた。
「すごく痛くてすっごく苦しい思いをするから……」
「なるほど。同じことをお前はあの男たちにもやろうとしてるわけじゃが?」
「うるさい! 止めようとしたってムダだよ! ぼくを邪魔するならーー」
「ーーワシも殺すか?」
徐に胸元を開き、胸の谷間を覗かせたユウ。豊満な肉体を持つわけでもないが、白く美しい肌にやんわりと赤みを帯びた様子が妙に色っぽさを感じさせる。
「なら殺してみろ。その隠し持ったエモノでワシなんぞ心臓をひと突きもすれば簡単に殺せるぞ」
色を覚えようとしたカイルの思考はその眼光と静かではあるが、やけに迫力のある声にすぐさま霧散していく。
感情のままに懐へ隠していた武器を持った手が異常な程に震えている。
「なんじゃ口だけかいな。ワシみたいな小娘1人、イモ引いて殺せんやつが報復なんてものできるはずがないのぅ」
「こ、ころせるよ! お姉ちゃんにはなんのうらみもないもん! アイツらならぜったい!」
「カイル、ワシはあるぞ」
「……へ?」
「叩いた肉の感触も浴びた返り血の生温かさも苦痛に歪み、死の淵にワシを睨みつけるその顔も全部、昨日のことのように思い出せる。いや、忘れようとしても忘れられんのじゃな、これが」
「お、お姉ちゃんが……人を……」
「怖いと思ったか? 気が狂ってると思ったか?」
返答こそ返っては来ないが、表情と全身の震え、いつでも逃げ出せるようにか少し後ずさって体勢を変えたカイルの様子全てが口で言うより正確に心情を吐露してくれている。
「その反応が普通なんじゃ。人を殺すっちゅうのはな、頭のネジが飛んどらんとそうそう行動に移すことはできん。いくら憎んでいようが、血が噴き出しそうなほど怒りを覚えようが、殺しを現実にできるのはそういう奴じゃ」
手付かずにいたジュースを酒を煽るように喉の奥へ流し込んだユウ。その後、遅れてきた強烈な甘みに唸り声を上げて険しく眉間に皺を寄せていると
「ねぇ、お姉ちゃんならアイツらを殺せるの?」
神妙な顔でユウを見上げるカイルの顔がそこにあった。
「……ドスか……小僧がそんなエモノぶら下げるなんて物騒な世の中じゃのぅ」
カイルの懐からようやく姿を現した凶器。それはユウにとっては馴染み深くも懐かしいものであった。
ギルティアには人を傷つけるには容易い武器と言うものを扱う店がそこら中にある。しかしながら、日本刀やカイルの持つ匕首といった和物は見たことがなかった。
醜い世に深いため息を吐きながら横目に映るそれは見覚えのない花が描かれてはいるものの形、長さどれをとっても極道者が好んで使うソレに遜色はない。
「お母さんが国を出た時に持ってきたごしんようってやつなんだって」
「……その国の名は? 日本か?」
「にほん? よく覚えてないけどそんな変な名前じゃなかったよ」
「じゃろうな」
しみじみと自分が異世界に迷い込んだことを改めて実感し、ユウはまた深くため息を吐く。
「答えてよ。お姉ちゃんならアイツらを殺せるの!?」
「……ワシもなぁ、友人がこの娼館に行ったきり帰ってこんのじゃぁ」
夜空を気怠るそうに見上げたユウはぽそりとそう漏らした。
「へ?」
「そいつは気は弱いが、仕事熱心ないい奴でのぅ。ワシも度々、飯に連れ出して無理やり酒を飲ましたもんじゃ」
「それって……お姉ちゃんがこのお店ではたらいてるのって……」
「もうかれこれ2週間近くなったのかぁ? 無事ではないじゃろうなぁ」
カイルの事など目もくれず、ユウは独り言でも呟くようにぽつぽつと心情を吐露していく。
「その犯人がもしキッドを殺していたら? ワシはどうする? 腹のわた煮えくりかえるじゃろうなぁ」
あれほど不味そうに飲んでいたジュースを一息で飲み干し、豪快に息を吐いたユウとやっとのことで視線が交わるカイル。
そのまっすぐな瞳で見つめられながら告げられた言葉はこうだった。
「殺しはやらない」
先程までの口ぶりからは思いもしない返答にカイルは一瞬、自分が何を告げられたのか理解が及ばずにいた。