音を支配する者
こびりつく無駄な思考を振り払ってユウはぐっと奥歯を噛み締めた。
初めから考える必要はない。いや、元より考える頭がない自分が何をらしくなく、相手の思惑や戦法を勘ぐろうとしているのか。
騒ぎになる前に目の前の敵を叩き潰し、この場を去る。
その思考に至るまで数秒、ユウは力強く拳を握りしめて赤髪の女目がけて振りかぶった。
「はんっ、やる気かあんた?」
女、3人程度なら今のユウにも即座に昏倒させるぐらいの自信はある。女を殴るのには少しばかりの抵抗はあるが、今はそうは言っていられないだろう。
「ーーーーーーーー」
その最中、赤髪の女が叫ぶように大きく口を動かしたが、ユウの耳にそれは届くことはなかった。いや、それは聞こえなくされていたのだ、とユウは死角から眼前に迫る花瓶の影に気付いてからそう悟る。
伸ばしかけた腕を強引に引っ込めて、ユウは前方に転がる。
「ーーうがッ!!」
体勢を立て直そうと起き上がる瞬間を狙って赤髪の女の足がユウの顎を蹴り上げた。ひらりと捲れ上がるドレスの裾。瞬く視界の中に妖艶な下着が垣間見えたとしてユウがそれを意識することも叶わない。
後方へ吹き飛ぶように転がったユウ。その手のひらに花瓶の破片が刺さり、深い傷から血が滴り落ちた。
「なんじゃぁ……?」
蹴られた際に口内を再度、激しく切ったらしい。唾液の混じった血をカーペットに吐いてユウは眉間に皺を寄せた。
まるで指示されたかのように的確なユウの攻撃に合わせた死角からの強襲。そして音もなく割れ、砕けた花瓶の破片。壁に大きな凹みを作った跡を見れば、それなりの力で投げられ、そして相応の重量があるのは確かなはず。
「はっはっ、いいねその顔。不思議で仕方ないって顔だ」
赤髪の女は口を大きく開けて笑い、その間に取り巻きの2人がユウの顔をニヤケ面で眺めながらゆっくりと背後へと移動していく。3方向から囲まれた立ち位置。チンピラたちに因縁をつけられて喧嘩を売られた時もこんな感じだっただろうか。
「最後のお情けだ。お前がここに何をしに来たか、それを吐けば少し痛めつけるぐらいで帰してやるよ」
「……じゃから、言っとるじゃろ。少しばかり用があった、それだけじゃ」
「おい、お前は会話もできないぐらい頭が悪いのか? 何をしにここへ来た……言え」
「…………オーナーに挨拶をしに来ただけじゃ。新入りなんじゃ、そうおかしなことではないじゃろう」
「挨拶か……いいね。礼儀正しい奴は嫌いじゃない。嫌いじゃあないが、こんな閉店後にコソコソと人目を忍んでするのがお前の言う挨拶なのか?」
ビリビリと空気が張り詰めるような視線がユウに向けられる。絶対的な敵対心、それ以外にない射殺すような眼光だ。
「正直に言いな? オーナーのマラ咥えて、ケツ振りながら穴差し出して優遇してくれって懇願しに来たって正直によぉ!?」
下の階まで轟きそうな怒気のこもった叫び声を上げて赤髪の女はユウの顔面目がけて灰皿を投げつけた。首を傾けて躱したそれは扉へぶち当たり、重く鈍い音を立てて床を転がる。
「新人には2通りいる。弱音を吐いてすぐに辞めようとする脆弱か野心に溢れ、分不相応な夢を抱いて上に媚を売る卑怯者だ。お前は後者だろ? 目を見ればわかる。そんなギラついた目をした奴が辞めるなんて弱音を吐きにここに来たわけないよなぁ?」
「悪いが、その2択ならワシは後者じゃ。娼婦としてのワシならばのぅ」
「あぁ? こいてんじゃねぇぞテメェ。私はなぁ、そういう娼婦としてのプライドもない卑怯者が1番嫌いなんだよ!」
耳が痛くなるような大声だ。これでは下の階から人が集まってくるのも時間の問題か。
「わかった、こそこそと誤解を招くような行動をしたことは詫びる。オーナーに身体を差し出して媚びたりもせん、約束する。それでいいなら、ワシは騒ぎになる前にここを去るぞ。入店初日から大事にしたくはない」
「あっは、どうやら今回の新人はどうしようもなくおめでたい奴らしい」
そう笑いながら赤髪の女は顎を突き出して取り巻き達に指図すると乱暴にユウの腕を取り、拘束を図る。
「うッーー!」
先程までなかった音がここにある。
咄嗟に取り巻きの片割れに頭突きをくらわしてやるともう片方もいとも簡単に引き下がっていった。
「見た目の割にはこういうことに慣れてるみたいじゃないか」
思わぬ反撃に動揺することなく、ご機嫌そうにユウを眺める一方で赤髪の女は尻込みしている取り巻きを厳しく睨みつけた。
強い者に逆らえない弱者がいるというのはどこの世界に行っても同じか、とユウは一人呆れ気味にため息を吐いた。
「大事にしたくない、とそう虚勢を張っているみたいだが、実の所は助けが来るのを待っているんだろ? 私達の話し声や花瓶が割れる音、灰皿が扉にぶつかった音、どれも直様に人が駆けつけて来てもおかしくない音だ。ーーが、不思議なことに助けはおろか音に反応し、騒ぎ立てる輩の気配もない」
赤髪の女は再度、廊下に飾ってあった花瓶を叩き落とし、盛大に床へぶち撒ける。
「答えは簡単だ。ここの音は私が支配した。私たち以外にこの音が聞こえている者はいないんだよ」
花瓶の破片をハイヒールで踏み砕きながら女は言った。