忍ぶ影
夜更け過ぎ、煌びやかに輝いていた装飾品の数々から光が消えて、あれだけ騒がしかった店内に残されたのはボーイたちの業務的な指示と帰り支度をしに更衣室へと戻りながら雑談をする娼婦たちの声だけであった。
その中で人目を避けるように人の流れから外れた影が一つ。誰との会話をすることもなく、その影は集団から集団の影に隠れ、足早に物陰にへと走りゆくと息を長く吐いた。
言わずもがな、その影の正体はユウに他ならない。
ここまではなんとか上手くいっている。
小慣れた娼婦たちと言えども仕事終わりは一様に疲れている様子、中には騒がしく会話を繰り広げる者たちもいたが、話に夢中でユウのことなど気にかけている様子もなかった。
あとはリリアンやリッカが悟られるような行動をしていないことを願うばかりだが、今更、気にしたところでもう遅い。
もう足は踏み入れた。
ならば、ユウの姿がないことに不信感を抱かせない程度、忘れ物をして取りに戻った、そんな言い訳が通じるぐらいの短時間で、迅速に行動するしかない。
足音のするヒール靴を脱ぎ捨てて脇に抱えると裸足のままユウは特別接待部屋の並ぶ長い廊下を駆け抜けて行く。
閉店後の今、嫌と言うほど漏れ聞こえていた娼婦たちの嬌声は微かにも耳に入ってこない。人の気配などするわけもなく、後はこの廊下を素早く駆け、その背中を誰にも見られぬことだけ。
正真正銘、正面突破型のユウ。ナルキスやマリーのように隠密行動に慣れていると言うわけでもないが、思いの外目的の場所まではすんなりと辿り着くことができた。
「さて、黒幕はもう目と鼻の先じゃぁ」
廊下の隅に隠れ、目的地を目視するとユウは静かに息を整える。数秒後、一目散に駆け出してそのドアノブを掴んだ。中には気づかれぬよう極めて慎重かつ静かに施錠の確認。まるで空き巣のような気分にもなるが、それも仕方ない。
結果、開きそうにない扉に軽度の落胆をする。
どうやらそう簡単に黒幕との正面衝突はさせてもらえないらしい。誰にも顔を見せないほどの用心深さを持ったオーナーだ。施錠ぐらい当たり前にするだろう。
しかし、淡い期待があったのも事実。
一応は来客を装い、小さくノックをしてみるも返事が返ってくることはなかった。
ここで無理矢理に鍵をこじ開けて突入してもいいが、物音が立ち過ぎる。従業員たちが駆けつけてくるのにそう時間はかからないであろう。事情を知らぬ者からしたら店のオーナーに襲撃をかけに来た刺客、そう思われるのが必然。マリアンヌを始めとした従業員たちに取り押さえられ、店を追放されてはもう二度と内部へ潜入することも叶わない。
「……施錠されとるっちゅうことはまだオーナーはこの部屋におらん可能性も考えられる」
ならば、その姿を確認するまで物陰に隠れて張り込むか。
数秒の思考の後、ユウは1人首を横に振った。
もうすぐオーナーがこの部屋に帰ってくるという確証があるのならば、それもありだろうが、ユウは何も知らない。慣れない仕事終わりだろうが、夜更けまで待ってやると言う根性こそあるもののボーイやマリアンヌたちが店を出ずにいるユウを探しに来るのも時間の問題だ。
「……仕方ない、日を改めて出直そう」
手を滑らすようにノブから手を離し、ユウはそう判断し来た道を振り返る。途端、ユウの頬が強い衝撃に打ち抜かれた。チカチカと明滅する視界、口の中に血の匂いが充満していく。
「うぐっ……ッ!」
咄嗟の判断でユウはすぐさま横へ移動。襲撃者の腹を狙った前蹴りがオーナー室の扉を強く叩いた。
「おいお前、ここで何をしている?」
小さなラメが入った漆黒のドレス、燃えるように真っ赤な長い赤髪をかきあげてユウを睨みつける女。気の強そうな大きくつり目がちな目、整った鼻は高く細い。鮮血のように真っ赤な紅を引いた唇は薄く、高身長でありながら小さな顔にそれらは崩されることなく存在している。
美しい人。
世の人々が彼女を一目見れば、皆が口を揃えてそう言うだろう。が、その眼光は鋭く、近付く者を威圧してしまうようなオーラを纏っている。これでは男たちも彼女を口説く前に怖気付いてしまうに違いない。
「聞こえないのかよ? いったいお前はここで何をしている」
張り上げているわけではないが、ドスの効いたそれはやけに声が通って聞こえてくる。
右手に握られたガラスの灰皿がただの脅しではないということと共に自分が何で負傷したのかを漸く理解した。
「……少しばかり用があっただけじゃ」
負けじと赤髪の女を睨みつけながらユウはぶっきらぼうにそう答える。
「はぁ? その用が何かって私は聞いているんだよ……おい」
赤髪の女がそう声を上げると変わらず、後ろでユウを睨みつけていた2人の女が前に出る。取り巻きがいると言うことはそれなりに地位を確立している者なのか。もしくはこの女がこの娼館のオーナーであるのかもしれない。
だが、何にせよ不可解だ。
3対1と気の抜けない状況ながらユウの頭にはある1つの疑問がこびりつく。
この3人が近付く気配や音に背後を取られるまでまったく気がつけなかったという疑問に。
転生という稀有な事象が自身に降り掛かり、ギルティアに来て2年ほど。ケンカや抗争に明け暮れた極道時代から比べて、これほどまでに勘が鈍っているものなのか。いや、負けずとも劣らずこちらでも死地をくぐり抜けてきたつもりだ。
ならば、何故この3人はこちらに察せられることなく近付くことができたのか。
隠密行動に長けた相当な手練れ、もしくは授能や魔法による能力。いで立ちや状況から察するにおそらく後者。もし、前者であったならば初撃で殺されていたはずだ。明確な殺意を持ち、力強く握られたガラスの灰皿が殺し損ねたとそう物語っている。