魅惑の果実
禁断の果実を食した人間は知恵を食した時、ヒトは知恵と欲望を得て代償にエデンを追放され、堕落した。
ならば、堕落したヒトが再度、禁断の果実を手にしたらどうなるか。
それは至高の喜びと欲望、極上の愉悦が身を包むことだろう。
ここはギルティア。自由と平等、そして希望の溢れる国。
その下層、数多の人種が行き交い、交流する街の一角、飢えた欲望を満たすべく設けられた魅惑の地がある。
歓楽街。
酒と金、そして肉欲を満たすべく人々で賑わうその場所で一際、輝く店があった。
『魅惑の果実』
デカデカと掲げられた看板に本物と比べるとやや小さくはあるが、宮殿を模したような風体。他の店のように店頭にて呼び込みをかける娼婦の姿はなく、悠然とそこに聳え立っている。
欲望の全てを満たせるその場所は客の出入りは尽きることはない。言わずと知れたギルティア一の娼館だ。
今にも涎がこぼれ落ちそうな緩み切った顔で入店していく者たちはさぞその胸を期待に膨らませていることだろう。
ただ、その者たちを始め、この店の存在を知る人々は耳にしたことがあるのだろうか。
この娼館『魅惑の果実』に立つ黒い噂の数々を。
いや、きっと知らない。知っていても知らないふりをしているのだろう。なにせ、彼らはこれから自らの意志で欲望に身を堕としていくのだから。そんな都合の悪い噂なぞに頭を悩ませる程ではない。
きっと、きっとそうに違いない。
「えぇ……」
依然、重体の身体を労わりながらベッドに横たわるフランクはそんな情けない声を漏らした。
「ふんぬっ……! ぬぅ……!」
先の血桜争奪の戦いから2週間程が過ぎた。
フランクの怪我も少しずつではあるが、回復に向かっており、ようやく自分の足で用を足しにいけるようになった。あれだけ喉を通らなかった食事も美味く感じ、「あぁ、太ってて良かったな。ナイフがもっと深くまで届いていたら死んでいたかもしれない」とそんな安堵感に包まれながら養生生活を送っていたのがほんの数日前だ。
「ユウさん、あなた本当に人間ですか? 実は古の魔人の血族とかそんな隠し事はないですよね?」
そう、この見目麗しく、快活な雰囲気が人々を魅了する栗毛の少女もまたフランクと同じく、いやもしかしたらそれ以上の重体であったはずだ。なのに、このユウときたらどうだ。ほんの数日寝たぐらいで院内を大笑いしながら闊歩するようになり、病院食の味や量に愚痴を漏らし、おまけに暇だ暇だと喚いていたかと思えば、隣で筋トレをし始める始末。比較的、軽症であったマリーでさえ肋骨のヒビが治りきらず、静かにしているというのにだ。
とても同じ人間とは思えない。
正直、引く。ドン引きもいいとこだ。
あなた、肺に穴が空いていたんですよ? 折れた骨が内臓をぐちゃぐちゃに傷つけていたんですよ? そう問いかけてやりたい。
「なんじゃ、人を化け物みたいに扱いおって。いいか、ワシがおかしいんじゃない。お前らが軟弱すぎるんじゃ」
と、言いつつもさすがにユウも自身の異常さには気付いていないわけではない。前世から丈夫な身体を持ち、何度も大きな怪我を、それこそ銃弾を受けたこともあるが、これほど早く快復することはなかった。
「まぁ、あるとすれば昔、クララに貰った違法薬の副作用かなんかじゃろうな。ありゃ、地獄の苦しみを味わったが、こんな怪我ものの数分我慢すれば治っとった。きっとそうじゃ、というか、それしか思い当たらん」
ユウは自分を納得させるように何度か頷き、大口を開けて豪快に笑った。悪いことならばまだしも、怪我の治りが早いなんてことは大歓迎。考えるだけ時間の無駄だ、そう判断した結果である。
「まぁ、これだけ動ければもう大丈夫じゃろう。ちょっと行ってくる」
「は? 行ってくるってどこへ?」
ベッドに掛けてあったタオルで汗を男らしく拭い、投げ捨てたユウはフランクとマリーにそう告げて病室を出ていこうとする。
「どこって医者のとこに決まってるじゃろうが」
「い、いやいや、医者のとこへ何を? まさか病院食がまずいって文句をつけにでも行くつもりですか?」
「阿呆! いくらワシでもそんなことで腹を立てたりはせんわ!」
「じゃ、じゃあ、何をしに?」
「何ってお前、退院手続きに決まっとるじゃろう」
何を言っているんだ、と言わんばかりに不思議そうな顔でユウは首を傾げた。
「え? 退院手続き? な、なんでですか?」
「なんでって見ての通り、ワシはこんなに元気バリバリだし、こんまま寝とくのも退屈じゃし」
「いやいやいや! 医者に退院させろと直談判するなんて聞いたことないですよ! 無理ですよ! 医者には医者なりの判断基準があるわけですし、今日の今日で退院なんてーー痛つつっ!」
荒げた声が傷口に響いたらしくフランクは患部を押さえて顔を顰める。
「それは困るのぅ。もう快気祝いに飲みの約束をしてしまったんじゃ」
いったいこの少女は何を言っているのだろうか。今日の今日で退院を志願しにいくばかりか、その足で飲み屋に向かおうとしている。
苦悶の表情を浮かべながら傷口を押さえるフランクは病室を出て行くユウの背中にかける言葉を振り絞ることも出来ず、結局その姿を眺めることしかできなかった。
「いってらっしゃいママ」
マリーが小さな声で送り出したのを激痛に悶え苦しむ中で聞いたのをフランクは確かに聞いた。