福音の鐘
絶叫、激痛による悶絶、溢れ出る血液の対処。光の瞬きの如く押し寄せる条件反射的行動と思考。が、自信に起きた現象によるパニックはほんの束の間、シュシュは瞬時に地面を転がりその場を離れる判断を取った。
泣き叫んでどうなる。痛みに暴れ狂ってどうなる。両手先がない状態でどう止血する。まず優先すべきはそう、音もなく背後から忍び寄った影から逃走を図る事だ。
ギルド所属とはいえ、授能を発現させているとはいえ、身体能力、精神力、戦闘技術その全てを踏まえてもシュシュは同年代の少女とそう変わりはない。そんなシュシュがこの現状において敢えて下へと続く階段から離れる、退路を断たれるような行動を起こしたとしても極めて正解に近い判断を取れたことは大いに褒められるべき事だろう。
「 」
羽の羽ばたく音、風切り音さえさせることなく空間という軸を移動して舞い降りた天使はあいも変わらず聞き取れもしない言葉で大きく声を張り上げた。その表情は打って変わって激昂。あの無垢な赤子のような微笑みはそこになく、明らかな敵意を持っての恫喝にも近い。だが、それはその鐘に近付くな、そうとも取れる、解答を告げるような叫びだ。
「はは……やっぱりわたしって運が良いのかもしれませんね」
言いながら引き攣るシュシュ。
天使の叫びに呼応して集まる無数の天使たち、その顔は皆、一様に禁忌の鐘へと近付いたシュシュへの明確な怒りと殺意に満ちている。
戸惑う間もなく大時鐘の周囲は天使の軍勢に包囲されてしまった。
そこに逃げ場などあるはずもない。
今からでも敵中央を突っ切り、階段への道を切り開くべきか。否、その判断は明らかな悪手。過ちを犯せば瞬く間に首が飛び、混沌に満ちたこの空をぼんやりと見上げることになるだろう。いや元よりこんな状況は想定できていた。いくら自分が幸運に恵まれているかもしれないとはいえ、悪夢の世界で希望への道がそう易々と光に照らされるわけがない。
ならば、シュシュが取るべき行動は一つしかないだろう。
「あ〜〜〜〜もうっ!! わかってても怖いなぁ!!」
天使に埋め尽くされた僅かな隙間、そこを縫い、シュシュは時計塔の上から飛び降りた。
降りかかる重力の圧。髪を結えた紐は飛び、桃色の髪をたなびかせながらシュシュは地面へ急降下していく。この高さから飛び降りればまず間違いなく絶命は間逃れないだろう。しかし、死への恐怖があろうとも最早、シュシュに残された選択肢はない。
纏う暴風の音にもはや聴覚が機能することもなく、瞼を開けていることさえままならない状態でシュシュは自身へと降り注ぐ天使の数を数えた。
「どうか後は頼みますよ……ブレンダさん。あなたの手でこの悲しい悪夢の世界を終わらせてください」
口から血が噴き出る。
体感ではもう数十秒は経っているように感じるのにまだ地面は遠い。
あぁ、そうかとシュシュは自分の腹部に突き刺さった天使の腕を見て納得した。天使は物理法則の影響下にいない。いくらシュシュが先に飛び降りようと、いくらシュシュより体重があり、追いつくのには数秒を要すると言えども神の使いにこの星の理は通じない。
彼らはもうそこにいた。
「あっ……ぐぅ……ぅぅ……」
風に乗り、自身の腹から何かが溢れ落ちていった。
無数の天使たちが団子状に固まり、肉を、骨を憎悪の任せるまま千切り、毟り、バラバラに解体して行く中で当の本人にはもう痛みの感覚などなく、自分の身体の中ってこんなふうになってるんだな、などと虚ぐ意識の中で考えていた。
「シュシュちゃん……」
一方で、どんなことがあっても時が来るまでは階段の影に身を潜めていることと言い付けられていたブレンダが懐に忍び込ませていた金槌を手に時鐘へと駆け出す。
そこに天使の姿はない。
シュシュは言った。天使たちは個対多で動くと。どんなちっぽけな獲物にも力の差を見せつけるようにかまたは弄んでいるのか、必ずシュシュに対してその場の全員で襲い掛かるはずだ、と。
考えてみれば、最初に天使が舞い降りた時も標的はシュシュ1人に。ナルキスが助けに現れた時も天使たちは皆、ナルキス以外に襲い掛かることもなく拍子抜けするぐらいあっさりと階段への扉に辿り着くことができた。
「シュシュちゃん、あなたってやっぱりすごいわ。あんな時に冷静に状況を把握するなんて普通できないもの」
ブレンダは言うが、果たしてこれは最善策なのだろうか。死に戻りが叶うか分からぬ状況に加えて不確かな敵の習性と命を賭すにはあまりに博打過ぎる。普通ならば戸惑い、尻込みすることだ。勢い任せとは聞こえがいいもののやってることはただの賭け。正気ではない。いや、ナルキスがそうであったように彼女らもすでに悪夢の瘴気に精神を蝕まれてしまっていたのかもしれない。
ブレンダが金槌を手に鐘を打ち鳴らさんとしていた頃、シュシュの空中落下の旅も終わりを迎えようとしていた。
生きているのか死んでいるのか。身体に機能する箇所はもうほとんど残っていない。あるとすればそう、酷く掠れた世界しか見えなくったこの眼。
今まさにシュシュの身体が地面へと叩きつけられる刹那にその眼は朧げに空が高速に流れ、暖かな陽光が差す様を見た。
「き……れ……い…………」
世界を照らす福音の鐘の音が街中に響いているのさえ聞こえぬままシュシュは重たい瞼を閉じる。
まるで安らかな眠りにつくようにゆっくりと。