今生の別れ
エドヴァルドが取った行動、吐いた嘘。死に別れた妻との再会を前にしたならば、それら全ては寧ろ取らなくてはおかしい行動なのかもしれない。
悪夢に呑まれ、不本意な死を迎え、孤独にこの悪夢を彷徨う。そこに愛する人または憧れた人がいたならばこの場に止まらせようと画策するのではなかろうか。中にはそれを否定するものもいるだろう。御伽噺の王子のように勇気と愛情に溢れ、自己犠牲と他の幸福を望むような者だと自らが確信しているのだ。
そんなわけがない。
きっとそんな綺麗事で着飾った者たちもエドヴァルドの立場になれば、その舌には悪魔が宿り、言葉巧みに愛する人を騙すか暴力による支配を試みることだろう。
エドヴァルドが理性を取り戻し、元の優しい彼へと戻ったのは神が与えた行幸とも言える。
されど、突きつけられた者はどうなるか。そこにある愛が深ければ深いほどその落胆と二度目の別れによる悲しみは計り知れない。シュシュの傍ら、足元でうずくまり嗚咽を漏らすブレンダがまさにその見本だ。
声をかけようにもどう慰めればいいのかわからない。奮い立たせようともどう元気付けたらいいのかわからない。
「あの……ブレンダさん……」
震える肩、冷たい床に染みる涙の跡。この場にブレンダを置いて行くか。いや、もしもシュシュの予想通りならば脱出にブレンダの存在は必要不可欠だ。加えてここで全員が死に、再度この悪夢をやり直すとなればエドヴァルドの決めた覚悟が無駄になってしまう。
ならば、無理やりにでも連れて行く他ない。
落ち込むのもわかる。泣くのも勿論。鞭を打つようで厳しいようだが、仕方がない。
「ーーーーあっ」
シュシュがブレンダのその腕を掴み損ねた。手の内から逃げるように離れて行く背中。動くとは思わなかったその姿に虚を突かれ、追いかけることさえ叶わない。
「エド……」
「ブレンダ……僕のことは大丈夫。もう弱音も吐かないさ。きっと君をここから出してみせる。だから早くーーーーむ……!?」
両頬を手で覆い、力付くで引き寄せた甘く、濃厚でいて蕩けるような接吻。
「すぐ会えるなんて嘘をつくのはやめて」
「あ、あぁ……その……ごめん」
混ざり合い、糸を引いて垂れた唾液の糸を照れ臭そうに拭ってブレンダは息を整える。
「……忘れない。あなたのことは絶対に忘れない。どんなことがあっても、どんな人が現れてもあなたは私の最愛の人。いつかまた、あなたに会えるその日までずっと…………あなたのことを愛し続けるわ」
「ははっ……そんなこと言ってもらえるなんて僕はなんて幸福な旦那なんだろう。とは言っても、そんなに深く考えないでほしい。君の幸せが僕の幸せなんだ。まだ、君には長い人生がある。良い人がいれば……その……あ〜っと、やっぱりちょっと嫌だなぁ……」
「何言ってるの? あなた以上に良い人なんているわけないじゃない」
少しだけ頬を膨らませたブレンダの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
「このキスの続きはまた今度。三度目の再会の時まで取っておきましょ。ちょ〜〜っとここじゃあ、お邪魔な子猫ちゃんがいるみたいだし?」
「それってわたしのことですよねぇ!?」
そもそもこんなところでそんな行為をしようとすることが常識外れだと思うのに何故、自分が責められるようなことを言われるのか。シュシュは不満げに腕を振った。
「さぁ、行くわよシュシュちゃん。このクソッタレの悪夢をどうやってでも脱出してみせるわよ!」
「あわ、あわわわ〜!」
その腕を取り、シュシュを半ば引きずるように階段を駆け登って行くブレンダ。その声が遠くなり、姿を見失ってからエドヴァルドは徐々に形取る液体を前にため息と苦笑を1つ。
「どうして僕は…………死んでしまったんだろうなぁ…………」
果てしなく深く、悲しみを帯びた呟き。生前の行いを悔いる彼の独り言は誰の耳に届くことなく、悪夢の世界に溶けて消えていった。
「あ! ありました!」
時計塔の最上層、息を上げてなんとか登り切ったシュシュは視線の先に古びた大時鐘が下がっているのを見つけた。
飛び交う天使たちに警戒しつつ、鐘の周囲を確認するも鐘撞き人らしき姿は見当たらない。当然、時計塔の損傷により時計盤との連動もとうの昔に壊れてしまっているようだった。
「いったいあの鐘の音はどうやって……考えていても仕方ありませんね」
もし、ナルキスくんが誰かから聞いた言葉がエドヴァルドの推測通りにこの鐘を鳴らすことならば事は急を要する。今、こうしてる時間もナルキスは下で死闘を繰り広げているに違いない。それにこちら側の視界が明瞭であると言う事は敵方もまた同じ。いつ、天使たちに見つかってもおかしくはないということだ。
死んでも最初に戻るだけ。
エドヴァルドはそう言ったが、シュシュにはまだその言葉を心の底から信じ切る事はできていなかった。
それが偶々だとしたら。何かの条件を満たさなくては死に戻りが不可能だとしたら。例え、死に戻りが行われたとして再度、この凄惨でいて残酷な現状に立ち向かう気持ちが残っているか。懸念は多分にある。ならば、今、この勢いを利用する他ないだろう。
「んん〜しょっ!」
右の手のひらから出現させた手のひら大の鉄の球。それを一度、床に転がしてシュシュは両手でそれを拾い直した。
鐘をつくための気の利いた道具などシュシュは持ち合わせていない。この大鐘が町中に響き渡るような音を轟かせられる物といえばこのぐらいしかなかった。
「お願いします……この悪夢に終わりを……!」
終わるに違いない。その願いと希望を込めてシュシュは歯を食いしばる。
細腕に抱えられた鉄の球は勢いをつけて振りかぶられた。それがまさに今、大鐘を打ち鳴らさんと手の中から離れようとした時、
「あ…………」
シュシュの手首から先が鉄球諸共、鈍く重い音を立てて地面を転がった。