狂人の言葉
悪夢がそう呼ばれるようにここにも奇跡や希望など簡単に訪れるものではない。
神がかり的な偶然が偶然を呼び、時計が動き出すといった奇跡は起きるわけもない。はたまた、天啓の如き閃きが彼女らに舞い降りることもなかった。
シュシュたちの時計修理は難航を極めていた。
意欲的に、そして決意を持って取り行われた作業であったが、ものの数分で手が止まる。
彼女らに出来たことと言えば四方に散らばっていたガラクタ紛いの部品をかき集めただけ。欠損部分同士を組み合わせて一応は組み立ててみはしたが、それが正解なのか間違いなのかもわからなかった。
「……ダメですね。例えこの部品の修復ができていたとしても……」
シュシュは高い天井、そこに所狭しと組み立てられた機関部を見上げ首を振る。
「あと何年、いや何十年かあればこの機関部を設計書無しに理解することも可能かもしれないけどそんなモタモタなんてしていられないよね」
「はい、いくらナルキスくんでもそこまでの時間を稼ぐことはできないと思いますし、何よりこの夜が終われば私たちはまたこの悪夢のような1日の始まりに戻されてしまうだけでしょう」
「じゃあ、どうするって言うんだい? 僕らを焚きつけたのはキミなんだ。まさか諦めるなんてことは……」
「ちょっとエド! そんな言い方はーー」
「ーー諦めたりなんかしません」
シュシュは大きな瞳をそっと閉じる。
「何か、何か他に方法があるはずです。だって、こんなバラバラに砕けた時計をたった1日で直せだなんてあまりにも無理難題過ぎます。きっと何かこの部品の山を集めた先に何かが見えてくるはずです」
「……やっぱり悪夢に希望を見出すの間違いだったのかな?」
「エドヴァルドさんの言う通り、悪夢に希望を抱くなんておかしなことのなのかもしれません。ですが、ナルキスくんは聞いたって言ったんです。思いついたや推測でなく、聞いたって」
「確かに彼は言われた通り伝えただけだって言ってたわね」
「これはわたしの予想や推測の域を出ない考えですが、きっとナルキスくんは託されたんです。悪夢を終わらせる方法を知りながら何らかの理由で行動できない誰かに、希望を」
「た、確かにそうかもしれない。僕は君たちを信じ、彼を信じることにした。けれども、これはあくまでも仮定の話として聞いてほしいんだけどさ」
エドヴァルドは言いにくそうに口をもごもごと動かし、機嫌を伺うようにブレンダを横目で見た。
「なに、エド。威勢が良かったのはほんの数分だけ? どうせまた弱気な発言でもするつもりでしょ!」
強く睨みつけるブレンダに怯えながらエドヴァルドは手を振る。
「ち、ちち違うんだ! 言ってるだろう、これはあくまで仮定だって! 僕は信じる。こんな恐ろしい世界をたった1人で生き抜いた人なんだろう? もうそれぐらいにしか縋ることはできないんだから!」
「なら何が言いたいの? ハッキリ言いなさい」
「…………彼がウソをついている、なんてことは考えられないかい?」
「エド……あなた……」
「違う! 話は最後まで聞いてくれ! ブレンダもシュシュちゃんキミだって気付いているんだろ?」
シュシュの脳裏にナルキスの顔が光速に流れていく。
「彼は明らかに普通じゃなかった」
ポツリと呟くように放たれた言葉がシュシュの肌を撫でるように冷たく通り抜けていった。
瞬きを忘れ、渇ききった大きな瞳が揺らぎ、飲み込んだ唾が大きく喉を鳴らす。
「顔も身体も……全身血だらけで片腕だってないのに彼はずっと不気味なほどに口を歪め、笑っていた。まるで返り血の毒に侵され、脳に悪い何かが侵食でもしていってるかのように、自我と狂気の狭間に立っているかのようで……」
エドヴァルドはシュシュの様子に気付きながらも止めることはなく、控えめに言葉を紡いでいたが、次第に言葉尻は強くなっていく。
「確かに彼は聞いたのかもしれない。ただ、それが真実を伝えているとは限らないじゃないか。ナルキスくん……彼はまるでこの世界を心の底では楽しんでいるんじゃないかと思う。……それにもし仮にその言葉が真実だったとしてもそれは本当に僕達にも見える人なのかい? 正直に言って彼は狂ってる! 瞳孔の開いた瞳に不気味な薄ら笑い、どうやっても僕にはそうとしか思えない!」
「エド! それ以上はーー」
口を塞ごうとブレンダの伸ばした手をエドヴァルドは振り払った。
「狂人の言葉を誰が信じる!? 時計を直せだって? それも一晩で! 無理に決まっている! 大体、脱出方法があるならば何故、広まっていない!? もしも何かを達成した者のみに伝えられる言伝だったとしてもそれを聞いた者は何故、広めない!?」
「だからそれは生半可じゃ実行できないことでーー」
「生半可じゃ!? 永久に無理だ! だからみんな諦めてしまったんだ!」
「あんた……さっきはナルキスくんを信じてるって……」
「…………ごめん。僕だって信じたいんだ。でも、それでも僕は……。あはは、ダメだ。感情の制御ができない。ここに来てから時折あるんだ、こんなことが」
ナルキスの自我が悪夢に侵食されつつあるならば、より長く、そして精神の弱いエドヴァルドが侵されていないはずがなかった。
「それに僕は……君と一緒ならこんな世界でもいい、そんなふうに考えてしまうんだ。だって僕はーー」
「ナルキスくんは嘘はつきません」
何かを告白しようとしたエドヴァルドの声がそんな言葉にかき消された。




