純粋無垢な残虐性
重い……身体が重い……。
シュシュらと別れてから、この天使の群勢と戦い始めてからいったい幾許の時間が過ぎたのだろうか。1時間あるいは5分かもしれない。
渇いた喉と冷たくなりつつある身体。不思議なことに汗は一滴も落ちることはない。しかしながら吐き出す呼気は荒く、熱い。
「限界か……」
稼いだ時間の長短に関わらず、ナルキスは休むことなく剣を振り続けた。残った片腕で斬った天使の頭は数知れず、授能さえも出し惜しむこともしなかった。
「あとどれくらい斬ればいいんだい、まったく」
閉じ切ったはずの氷の壁。外から衝撃を受け、僅かにできたほんの数ミリの亀裂から液体のように形を変えて這い出てくる無数の天使達を睨みながらナルキスは到頭、地に膝を着ける。
ここで死ねば時間は逆行し、倒したはずの天使が再度襲いかかってくるばかりかシュシュたちにも影響を及ぼしてしまう。
そうは思いながらも意志とは裏腹に身体は身動き一つ取ろうとしない。
「 」
「 」
天使がナルキスの剣を踏み折り、何かを耳元で囁いた。
不快な音、言語化できぬ気持ち悪さと高揚感。だが、なんとなくではあるが、ナルキスの脳がその言葉とも言い切れぬ音を理解しつつあることに気付く。完全ではない。言葉を喋れぬ幼子が親に何かを発するような、理解までは及ばない漠然とした理解と推測の中間点。
虚に揺れる瞳が空を眺め、天使に弄ばれた右腕がミヂッミチッと嫌な音を立てて引きちぎれてようとする中でもナルキスは耳元で囁かれる言葉に耳を傾けることしかできない。唇を超え、血の混じった唾液が糸を引いて落ちていく。
ーーなんだ。何を伝えたい?
ブチブチブチブチッッ!
掴まれていたのは右腕だけではなかったらしい。皮膚と繊維、肉と骨、その全てをねじ千切られるようにナルキスの右足が欠損。その膝から下が赤黒い血だまりを作り、乱雑に床へ投げ捨てられた。
表情は変わらず薄い微笑を浮かべたままの天使達であったが、ナルキスの千切れた右足を弄ぶその様は玩具で遊ぶ赤子のように純粋で清くも見える。
身体中に走る激痛さえもその悦楽に勝ることはなく、ナルキスは視線の先、分厚く硬い氷の壁が轟音を立てて崩れていくのをただ眺める。
「は……はは……」
不意に漏れた声。唇が小さく震える。
神はそこにいた。
巨大、そして力強く禍々しい。思わず頭を下げてしまいそうな威圧感と神々しさを持ち合わせながらもこの世の醜悪を一手に纏めたような不快感と気色の悪さが全身の肌を刺す。
これが神と言うならばいったいどのように形容したものか。人らしくもあり、人を凌駕した存在でもあり、怪物、未知の生物らしくもある。口にし難いその容貌はナルキスの頭を混乱させ、自身の首が折り千切られた事さえわからぬまま思考の終幕を告げられた。
首は地を転がり、その碧眼はくり抜かれ、残された身体は悪童に与えられた人形のように細かく分解されていき、見るも無残な肉塊となってその場に残された。
天使らは人を喰うわけではない。天使はやはり天使らしく、無垢で純粋で残酷だ。人間という下等生物を弄び、救いもすれば破滅へ導いたりもする。
やがて、ナルキスであった肉の塊は光の粒子に姿を変えて宙を舞う。天使らはその粒子を追いかけ、手を伸ばし、まるで遊んでいるかのようだ。
散り散りになっていた粒子がやがて収束し、1つの形を作り、瞬いた。
「僕は……また死んだのか……」
自身に起きた惨事を知らぬナルキスは呆然と周囲を見渡した。
時間は戻っていない。
それが何故なのか、ナルキスは思考する。悪趣味この上ないが、あの聖堂であった男の言い振りとこの天使たちの振る舞いから察するに世界の終わりまでこの天使たちに殺戮を繰り返される。きっと人々に逃げ場のない恐怖を味合わせ、忘却を誘発されるような絶望を植え付けているのだろう。
もしかしたら天使達は時間逆行の影響下にないのかも知れないが、それならば何故周囲の瓦礫は元の形に戻っていないのか。もしくはあの地下に眠っていた双神のように神の類に属するものの死傷には死に戻り発生の条件にないことということなのか。ナルキスが殺されたの神ではなく、天使。それ故に時間の逆行は発動せず、肉体の再生だけが発動したのだろうか。
まぁ、いい。
考えるだけ無駄な事。どうせ一度も死ぬ事なく、この場を切り抜けることなぞ可能性としては無に等しい。ならば、いくら死んでもいい。なんとしてもあの神の首を切り、この悪夢から脱出しなくてはならない。シュシュたちの方とて漠然とし過ぎていてあまり期待はできないだろうから。
「さて、キミを殺すのに僕はいったい何度死ねばいいんだい?」
失くしたはずの左腕、折られた剣までもが元通りだ。どうやら、外界から自信が持ち込んだ物は肉体の一部扱いになるらしい。
五体満足となったナルキスは首を鳴らし、巨大な神の膝下へ確かに歩み出した。