嫌い、大嫌い
「ここが……機関室……」
ナルキスと別れ、息を切らしながら駆け込んで来たそこでシュシュは周囲を見渡した。
エドヴァルドがいたあの部屋でも充分な高さがあるように見えていたが、どうやらまだまだこの時計塔は天高く伸びているらしい。
見上げる視界に広がる機関、大小様々な歯車に加えて何にどう影響するのかもわからない部品の数々。
「どれも損傷が激しいわね」
同じように犇く部品の数々を見ながら呟いたブレンダ。その困惑したような声にシュシュは黙って頷いた。
ナルキスは言った。夢から覚めたいのであれば時を動かせ、と。
果たしてそれがこの難解な部品の数々を組み合わせて時計を機能させろという意味なのかはわからない。いや、それはナルキス自身にもわかっていないことなのであろう。
だが、この世界に迷い込み、短くも長い悪夢を体験してきたシュシュにはこれしか思い付かなかった。
この街を象徴するのは2つの建物。
街の上層部に聳え立つ聖堂らしき物とこの時計塔だ。時を刻む物と言えばシュシュはここしか知らない。もし仮にここ以外に時計が、目を凝らし、街中にある家屋のたった一軒の壁にひっそりと掛けられた時計がそれを示すのであれば、その時はツイていなかった。それだけにこの直感に頼る術しかない、そう思う他がない。
「立ち止まっていても仕方ありません。手を、手を動かしましょう」
そう時間がない。
こうしている今もナルキスは階下で怪物たちと戦っている。
床に散らばった部品の1つを抱えてシュシュがよろよろと動き出した時、
「無理だ……こんなもの素人が直せと言われて直せるものじゃないよ」
エドヴァルドの絶望めいた悲観する声が小さく響いた。
「考えてもみてくれよ。時計なんて精巧な物を僕らの中でただ一人でも修理したことがある人がいるかい? 時計って言うのは知識と経験が何よりも重要なんだよ。それを指示も説明も設計図も何も無しに直せなんて無理難題にも程がある」
「あら、エド? あなたって芸術家よね? ほら、昔は絵画だけじゃなくてもっと色んな物を作っていたでしょ? 手先が器用なあなたがいたならきっと何とかなるわ」
「そういう問題じゃないんだよッ!!」
床に強く打ちつけたエドヴァルドの拳からじんわりと血が滲んだ。
「手先が器用だなんて何の意味も成さない! 何度も言ってるが設計図もない時計の修理なんて無理だ! 子供の壊れた玩具を直すのとはわけが違うんだ……」
「エド……」
「大体、あの青年……ナルキスくんが言った言葉だって本当かどうかなんてわからないじゃないか! いったい何処の誰に聞いた話なんだ……僕はもう長い間ここにいるけれどそんな話聞いたこともない」
「それはあなたがあの部屋にずっと引きこもって絵を描いていたからでしょ?」
「確かに僕はここに来てキミら以外の人間と会話なんてしても来なかった。……でも、もしもナルキスくんが本当に何者かにその話を聞いたならばとっくに誰かが実行に移しているはずだ! 機関室に行くにはどうしたって僕がいた部屋を通る必要がある。なのに……僕は今日の今まで誰一人として出会うことはなかった。この意味がわかるかい? 誰しもが無理だと諦めてしまったんだ……実現不可能な脱出だってね……」
肩を大きく上下させ、息を切らすエドヴァルドの瞳から涙が零れ落ちる。
「エド……私を見て……」
泣き崩れるエドヴァルドにブレンダは歩み寄り、微笑みながらそう言った。
「な、なんだーーーーへぶッ!!?」
顔を上げたエドヴァルドの頬に強烈な平手が叩きつけれた。
「前から思っていたけど、言おう言おうと思ってあなたは死んじゃったから言えなかったけど、貴方のそういうところ大嫌い」
「へ……へ?」
「なんでもかんでも壁にぶち当たれば無理だお終いだって諦めて、すぐに逃げだそうとする。それ以外の全部はあなたのことが大好きだけど、そこだけは嫌い、大嫌い」
「ブ、ブレンダ?」
「ウジウジウジウジしちゃってさ、こんな時ぐらい男を見せたらどうなの? 下では私たちより若い、シュシュちゃんの恋人が命を張って怪物を引き止めてくれてるのよ? シュシュちゃんだってそう。こんなに普通の女の子が弱音も涙一つも流さないで頑張ってるのに私たちが頑張らなくて恥ずかしいと思わないの!?」
エドヴァルドが瞼を固く結び、俯く。
「ブレンダさん、ナルキス君がなんて言いました? わたし、あまりの寒気に少し耳が遠くーー」
パシンッ! と渇いた音がシュシュの言葉を邪魔する。
エドヴァルドの両頬が真っ赤に腫れあがっている。ブレンダではない。エドヴァルド自身、自らがその両頬を叩いたのだ。
「やってみよう……いや、必ずやり遂げる。僕だってやる時はやる。君に良いところの一つぐらい見せたいからね」
「言ってるじゃない。それさえなければあなたは完璧。私が理想とする完璧な旦那様よ」
闘志の漲る意志の強い瞳。エドヴァルドは完全にやる気を取り戻したらしい。
「さっきエドヴァルドさんがこの時計塔に来た人はいないと言っていましたが、確かに実現不可能なのかもしれません」
エドヴァルドを含めた全員が気を取り直し、作業に取り掛かろうとした矢先、シュシュが言う。
「けれども理由は2つ考えられるんです。エドヴァルドさんが言ったように諦めてしまったか、もしくは方法を知りながらもここに辿り着くことができなかった」
「確かにそうだわ! 何も皆が無理だと諦めてしまったわけではない。怪物たちに道半ばで倒れてしまった人もいるはず!」
「でも、僕たちにはナルキスくんという心強い味方がいる。これなら……」
「はい、きっとナルキスくんは知るべくして知ったんだと思います。悪夢を晴らす方法を伝えられるに値する何らかの条件を満たして」
後は託された自分がやるしかない。
ナルキスがどれぐらい持ち堪えられるかはわからない。できるだけ急がなければ。
僅かに見えた希望の光、夢の外から垂れ下がる細く弱々しい糸を見上げて3人は時計盤の復旧作業に手探りながら取りかかり始めた。