死の淵に
外の怪物達とも違う明らかに異質な存在の訪れにブレンダ、エドヴァルドのみならずシュシュさえもその生温い視線に身体を固めてしまう。
判断の遅れは死を招く。
動けぬその間にシュシュはそんな言葉を思い出した。
「 」
光を纏う裸婦の姿をした赤子、さながら天使とでも呼ぼうか。睨み合いが続くと思われた最中、天使が口を動かした。それは大凡、人には理解できぬ言葉。脳内に直接話しかけられているかのような不思議な言葉だった。
「うっ……」
何を話し、何を伝えたいのか、そんなこともわからない。ただ一つ言えるとすれば、酷く耳触りの悪い音だと言うこと。
「 」
例えて言うのならば老若男女全ての声を不均等に混ぜ合わせたような、いや血濡れた臓物に手を入れ掻き回すような、もしくは地獄の果ての叫び声か、いずれにしろ耳に残るのは吐き気をもよおすような気色悪さだ。
不快そうに眉を顰める面々を面白がってでもいるのか、赤ん坊のような無垢な笑みを浮かべて天使は幾度か言葉を投げかけてくる。
ーー早く逃げないと……ッ!
頭ではそう考えてはいるものの身体は動かない。それが単なる恐怖から来る竦みではないことを知るのはそう遅くはなかった。
理性の中では拒絶する天使の言葉だが、本能が求めてしまっている、天使の次の言葉を。意味は理解できなくとも何故か聞き惚れ、寵愛を受けているような多幸感に包まれる言葉を身体が求めてしまっている。
「…………え?」
窓の外に浮かんでいた天使が窓をくぐり、ゆっくりと緩慢にこちらへ向かってくる。
床に足はついていない。まるで存在自体をその軸に固定されたかの如く、滑るように。
空気がピンッと張り詰めた。
たぶん触れられれば殺されるだろう。
悪意なき悪。これが天使だとするならば神とはこんなものなのだろうか。理由もなく、弄ぶように人々の命を奪うような高位の存在。もしくは殺す気なんてないのかもしれない。ただ、彼らにしてみれば人々が脆過ぎるだけで単なる戯れなのだろうか。
距離が数センチ、数ミリ近づく度に身体中を駆け巡る血液が凍り付いていくような感覚だ。
ーーけれどもこれで良かったのかもしれませんね。
近付く死の影に震えながらシュシュは一人安堵する。
天使はシュシュに真っ直ぐ向かってくる。単に天使との距離が一番近かっただけだと思うが、シュシュには都合が良かった。
一番に自分は殺される。
どう頭の回転を早めたところでこの場を犠牲者なく切り抜ける策は見つからない。実際のところ戦闘能力的に非力な自分が人を守りながら窮地を切り抜けること自体、無謀な企みなのだ。
ならば、自分が犠牲になればいい。
依頼はブレンダの救出だ。
好都合にも天使はまだ一人。仲間を呼ぶ気配も外を飛び回る仲間達がこちらに駆けつけてくる気配もない。
死は確実だが、一息に、瞬きする間も無く殺されるわけにはいかない。自分が死に逝く様を見て、ブレンダたちの萎縮という呪縛から恐怖を持って解放する。人が目の前で殺されれば嫌でも逃避行動を取らざるを得ないだろう。
「……よしっ」
固く目を閉じ、ゆっくりと瞼を開ける。手を伸ばせば天使に触れられる程の距離だ。
「……シュシュ……ちゃん? 逃げ……早く……逃げ……」
「ブレンダさん、すっごくすっごく不服なのですが……わたしはたぶんこれまでです。だから……たぶんですけれどナルキスくん、いけ好かないキザな人がこの世界のどこかにいるはずです。後はその人を頼ってください。きっと彼なら……」
天使の手がシュシュの頬に伸びる。鼻先を撫でる吐息に生気は感じない。寒空の下に投げ出されたような只々、冷たい、それだけだ。
抵抗する。抵抗しなくてはならない。腕をもがれようと眼球をくり抜かれようとこと切れるその時まで抗い、少しでもブレンダ達が逃げる時間を稼がなくてはならない。
思いながらも身体が固まる。
自らが課した使命を忘れ、シュシュは願った。
ーーパパ、ママ。おばあちゃん……ユウちゃん、マリーちゃん、クゥちゃん、フランクさん……神様。誰でもいい、誰でもいいから助けてください。死にたくない死にたくない死にたくないッ!!
恐怖のあまり目を閉じたシュシュが聞いたのは耳をつん裂き、目眩を起こすようなこの世のものとは思えない悍ましい悲鳴だった。
恐る恐る目を開けたシュシュの目に飛び込んできたのは星空のように輝く金色の髪。
「死の淵に助けを願ったその中に僕の名前はあったかい?」
躊躇を感じさせない天使の左目を貫いたナルキスの剣。引き抜くとともに飛び散った真っ白な液体が地面に到達した頃には天使の首が宙を舞っていた。
見るも鮮やかなで神速の剣技。床に転がりながらも絶叫する頭を踏み砕き、ナルキスは剣を納めた。