衰え
「キミは信徒たちを神の救済と欺き、生贄としてきた。それがキミの中で正しきことであったのかは僕に計り知ることはできないが、相応の恨みを買うのも当然とは思わないかい?」
小馬鹿にするようなナルキスの笑み。
烈火の如く憤怒したマーシュが地面を強く蹴り出した。
怒りという感情が影響したか、その突進はあまりに単純であると共にせっかく手に入れた触手は無気力にぶら下がったままだ。いや、唯々憎たらしいナルキスの顔に自らので刃を突き立ててやりたかっただけなのかもしれない。
そよ風のように最小限の動きでマーシュの剣を躱したナルキス。すれ違い様に垣間見た涼しげな顔にマーシュの奥歯が擦り潰れそうな程、大きな音を立てた。
その怒りの中でもマーシュに降る気付き。果たして、先程まで反応することさえできなかったナルキスが単調だったとはいえ、全力の突進を目で追い、剰えこれほどまで華麗に避けることができるのだろうか。しかも、見るも明らかな負傷を負ったナルキスにそんなことが……。
力が衰えている。
多少なりとも違和感を感じなかったりわけではない。
血だ。あの忌々しい薔薇によって血が体外へ排出されたあの瞬間、何かが抜け落ちていく、そんな感覚があった。
しかしながら、神の肉を喰らい、この身にはすでにもう神と混ざり合ったもの。あれだけの血液でこれ程までに力が退化するとは考えにくい。
「相応の恨みを買うのは当然だ、と僕は言ったはずだよ。たかだか黒薔薇の一本でキミの罪が許されると思ったのかい?」
「…………これは…………」
ナルキスからすれば遅すぎる反応だ。
自身から生えた無数の黒薔薇に驚愕するマーシュにも苦笑を隠し得ない。
「肉体が強化されて痛みに鈍くでもなったのかな。まぁ、それもキミが望んだ姿なのだから同情する余地もないが」
初めからこの結末を見据えていたわけではない。
腕を斬られ、苦し紛れに放った一太刀をマーシュが避けなかったあの瞬間に思いついたに過ぎない。
勝ちを確信したマーシュの隙につけ込むのはここしかないと腕を自ら切り捨て、刺突による突進と共に血飛沫に混ぜて薔薇の種を撒いた。
結果的に血を抜くことによって弱体化が見られたが、元は血を抜かれて生きている生物はいない、その常識が神に通じるのかはわからないが、そんな淡い期待を込めた作戦であった。
「……それで? だから何だと言うんですか? この薔薇が何の意味を持つ? 薔薇の出芽箇所を見るからにその全ては貴方が私に傷をつけた箇所だ。つまり薔薇は傷口からしか生やすことができない。それが意味するのは私が傷を負わなければこれ以上の劣化はないということ」
ナルキスの侮蔑めいた冷笑を目にし、その説明を受けたのがマーシュの冷静さを一気に引き戻した。
「対して貴方は片腕を失うという致命的な負傷をした状態。いくら氷結による止血を施したとはいえ、そう長くは動くことは出来ないでしょう。ならば、私は貴方の攻撃を避けながらそのボロついた肉体の限界を待つだけ。いくら劣化したとはいえ、今の私にはまだそれが可能です」
言いながらマーシュは自身の身体から生えた氷の薔薇を愛おしそうに眺める。
「体外へこれ以上の出血を防げばいいと言うことはこの薔薇には触れぬが吉。なに、そう考えればこの薔薇も中々美しいものではありませんか。何せ私の崇める神の血によって彩られた特別な花なのですから。それに聖職者たるもの、人々の憎しみのいくつか背負わざる得ないというものです」
「なるほど……ふむ、確かにキミの言葉が正しいのだとしたらその通りだね。どのみちこの傷じゃあ僕もそう長くは戦えないだろう。持久戦ならばキミの勝ちは揺るがない」
「は?」
「これは美的感覚の違いだから他人に押し付けるつもりはないが咲き誇る花も確かに美しいとは思う。でも一方で花弁を落とし散り行く様も同等の美しさを持っているとは僕は思っている」
マーシュの肩に刺さっていた一輪の薔薇が氷の結晶を撒き散らせて砕け散った。途端、マーシュの血液が舞い散る花びらのように空中に噴き出る。
「人に永遠の命がないように花も尽き果て、散る。当たり前だろう」
その間にも氷の薔薇は次々に砕け、蓄えたマーシュの血を零し、根を深く食い込ませていた傷口からは堰き止めるものもなく、大量の血が溢れ出ていく。
「やめろ! やめろ! この血はッ! この血にどれだけの価値がッ!!」
「あぁ、それともう一つ。キミはこの薔薇が傷口からしか発芽できないと言ったが、それは違う」
ナルキスを覆う冷気のオーラが無数の小さな氷の礫を作り、それが徐々に薔薇の花を模って宙に浮かんでいく。
「ただの氷解を作るのと違って精巧な物を作るにはそれなりに集中していないといけないし、時間がかかり過ぎるんだ。それにこのままキミに放ったとしてどうせ避けられるか、体に届く前に砕かれてしまうのが関の山だろう?」