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黒い薔薇

 散らばる氷壁の残骸。滴る血液に染まり、溶けていくその光景を目にしてようやくナルキスは自分が切られたことを把握した。

 止まった時が戻るように遅れてくる激痛の渦。力なくダラリとぶら下がる左手はもう動かない。


「これはこれはお労しい。先程までの軽口が嘘のようだ」


 宙を舞い、回転するようにして後退するナルキス。その去り際に放った剣戟がマーシュの腕を擦り、凍りつく。

 負傷による腕力の低下と逃げ際に振るわれた苦肉の一撃。もはや避けるまでもないと、力の差を見せつけるかの如くマーシュはその一太刀を意に介することもしなかった。


「最後にもう一度問いましょう。私と世界を救う気はありますか?」


 ナルキスの浅い一撃によって傷付けられた頬。そこから伝う黒い血液を拭い、マーシュはそれを舐めた。

 心酔する神より賜った血液を一滴足りとも無駄にはできない、そんな心情の現れだろう。




「何度言えばわかるんだい? 断る、そう僕は告げたはずだ」




 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたナルキスは徐に負傷した左腕に剣を突き立てる。

 怪訝であり奇妙な行動とも思えるナルキスの動きに思わずマーシュの動きが止まった。




 ブチブチブチッッッッ!!




 辛うじて繋がっていた左腕を皮膚や血管ごと切り裂き、引きちぎる耳障りな音が響く。

 事もあろうにナルキスは皮一枚繋がっていた腕を自らの手で切り捨てたのであった。

 噴き出す夥しい血液は氷結によって瞬時に止血。剣を握れぬものとなったソレはナルキスにとって邪魔にしかならない、そう彼は判断したのだ。

 まさに狂気の果て。悪魔的行動にマーシュが目を見開く。そこに恐怖などといった概念は存在しない。いやむしろ、それさえも通り過ぎてしまっているのかもしれない。


 結論、マーシュには理解ができなかった。


 確かに機能を失った左腕は邪魔にしかならないかもしれない。だが、果たしてだからと言って自らそれを己の手で切り捨て、自ら窮地に陥るような選択肢を誰が取ると言うのか。

 たかが左腕一本、しかしそれを失ったことによりナルキスが苦しむことになるだろうことは()()()()。突如として失った片側の重り、その急激な重心変化に少なからず体捌きへの影響が出ることは明らか。

 まさか玉砕覚悟で自分に挑もうとでも言うのか。いや、もしくは尻尾を切り逃げ出すトカゲのように腕を囮にこの場を去ろうとでも言うのだろうか。


 まさかこの男にとってあり得ない。


 ナルキスの思考に追い付かずにいたマーシュの眼前を黒い影が覆った。血飛沫を撒き散らせながら宙を舞うそれは言わずもがなナルキス自身の手で捨てられた左腕だ。


「ーーッ!?」


 視界が塞がれたその瞬間、マーシュがそれを受け止めようと試みた時、無数の刺突が全身に襲いかかる。

 浅い。虚を突かれた不意打ちではあったものの力のないその攻撃はマーシュの皮膚一枚を傷付け、少量の血を流す程度。

 逃亡がないとすればやはり玉砕覚悟と言うことなのだろう。

 懐に入り、不敵に微笑むナルキスをマーシュは睨み付け、渾身の一振りによって断ち切らんとするが、半身を動かして紙一重でそれを避けたナルキス。驚くべきことに負傷によるダメージや失った左腕による平衡感覚の欠落など微塵も感じさせぬ様子で追い打つ触手の猛攻さえも軽業師のように身を翻してその全てを華麗に避けてみせた。


「……いったい貴方が何をしたいのかは分かりませんがそろそろ諦めませんか? 見てください、貴方が付けたこの傷を。まるで赤子のように弱々しいではないですか。こんなもので私を殺せるとはさすがの貴方も思ってはいないはずです。いや、貴方だからこそわかるはずなんです。狡猾で理性的。少しばかり狂気を感じる貴方ですが、私は貴方を認めているんですよ? だから貴方はとっくに気付いているはずだ。私との戦力に絶望的な差があり、どう足掻いたとしても差し違えることさえもできないなんて簡単なことには」


「ふむ……絶望的な差か……」


「そうですとも! 貴方は私に勝てない。これは揺るがない事実なんです。ですからそろそろ諦めてください。貴方が共に救済の道を歩めないのならば、せめて神の化身となった私の贄となり、その身を捧げなさい。さすればすでに狂ってしまった貴方にも神は救いの道をお与えくださります」


 マーシュの触手さえも届かぬ射程外で前髪を払ったナルキスは大きく鼻で息を吐く。


「赤い薔薇の花は美とか愛の象徴、そんなことは広く知れ渡っているが、キミは黒い薔薇にどんな意味があるか知ってるかい?」


 マーシュに向けて指を指すナルキス。

 指先の示す自身の身体に目を落とすとそこには傷口から伸びた一輪の薔薇が咲いていた。氷によって作られた透明の薔薇だ。それが見る見るうちに黒く染まっていく。傷口からマーシュの血液をパイプ状となった茎が吸い上げ、花弁を彩っているのようだ。


「黒い薔薇には恨みや憎しみ、そんな意味が込められることもある」


「だから何だと言うんです? こんな薔薇を一輪刺したことでなにか戦況に変化があるとでも?」


 マーシュは乱暴に薔薇を引き抜いて地面に叩きつけた。粉々に砕けた氷の薔薇から溢れだしたマーシュの血がじわりと地面に染み込んでいく。加えて、思いの外薔薇の根が深く食い込んでいたらしい。噴き出す血を抑えてマーシュは忌々しげに歯を鳴らした。

 神聖なる血が無駄にしてしまった。そう思うと胸の内から沸々と怒りが込み上げてくる。

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