不可能な撤退
近づいた太陽に真っ青な空。心地よい風が身体を吹き抜けていくの感じる。手の届きそうで届かない雲を見上げ、山々の先にはギルティアの立派な城が確認できる。鳥達の仲間になったかのような、それらと同じ高さから見る景色は筆舌に尽くしがたい。
朦朧とする意識の中でユウは微かに口の端を吊り上げた。
左腕に走る鈍痛と血をいっぱいに含んだ口。もしかしたら、身体中の骨が粉砕されているのかもしれない。全身を覆う痛みが意識を失うことさえ許してはくれない。
だが、それでいい。
視線を落とし、ユウは自身の右手に注目する。
力強く握った白く華奢な手にはインドラの手がしっかりと握られていた。憔悴しきったようで、この状況に悲鳴の1つも声に出さないが、生きている。
ユウを見上げ、力なく動いたインドラの口から何かが絞り出されたようにも思えるが、それは風の音にかき消され、聞くことは叶わなかった。
よかった、と心からそう思った。
これで自分が何のためにベルセルククレフターの元へ戻ったのかようやく意味が持てた、と。
だが、インドラを握った手にもそろそろ握力がなくなってきた。空中に吹く風と重力、そして負傷のせいか人1人を繋いでおくのはもう無理そうだ。
それに、このままユウ達を待つ結果は地面に叩きつけられるという事実だけ。2人が繋がっていては生存確率も下がってしまうだろう。
もしかしたらこの世界特有の不思議な力で落下ダメージを減らす術を持っているのかもしれない。ならば、尚更ユウは足手まといというものだ。
「あの死地から脱出できたんじゃ。受け身ぐらいは自分でやってくれ」
そっとユウはインドラと繋いでいた手を離した。
たちまちに風はインドラを攫い、ユウから遠く離れていく。
やるだけのことはやった。
近づきつつある大地を確認し、ユウは満足気に目を閉じる。
まさか、極道を進んだ自分の最期が人助けになるなんて、と自嘲気味にほくそ笑みながら。
「ユウちゃん!!」
上空から大地への激突はもっと硬いものだと思っていた。それが、ユウを包んだのは柔らかでいてじっとりとした感触。
恐る恐る、目を開けたユウの目の前に現れたのは痛みを堪え、今にも嘔吐してしまいそうな険しい顔つきをしたニオタの顔だった。
「ふぐぅ〜……ッ! ふ、太っていて良かったと思ったのは今が初めてでござ……る……オロロロロォォ〜」
豊満なニオタの脂肪をクッションにする形でなんとか激突を免れたらしいユウは柔らかな腹をベッドにするような形で空を見上げていた。
「ユウちゃん! ユウちゃん! 大丈夫ですか!? ケガはないですか!? ユウちゃん!」
「おうおう、ケガなら沢山しとるわ。もう左手が動かん」
地面に仰向けに倒れ、嘔吐するニオタの腹から両足を大地につける。途端、得も言えない安心感が溢れ出た。
身体を張って自分の命を助けてくれたニオタの腹を感謝の意を込めて2度ほど軽く叩き、次に今にも泣き出してしまいそうなシュシュの頭を落ち着かせるように乱暴に撫でて、ユウは歯を見せて笑った。
その視線の先には同じく身体を張り、不恰好に地面へ崩れながらもインドラを受け止めた萌ゆる夢ギルドの面々が手を振っている。
どうやら、ユウのしたことは無駄にはならなかったようだ。
「さ、さぁ、逃げるでござる! アグニ殿は救えなかったが、あの状況下でインドラ殿を救えたことだけでも大金星でござる!」
吐瀉物によって汚れた口元を拭い、ニオタはユウとシュシュの手を握り、この場を逃げ出そうと引き寄せようとするが、ユウはその手を優しく解いて首を振った。
「逃げられん。ワシらは逃げられんのじゃ」
「な、なぜでござる! 奴が見ていないうちにここをーーあっ!」
ニオタの両眼がしっかりとこちらを睨みつけ、両手を広げて高々と掲げるベルセルククレフターの姿を視認する。言うまでもない、威嚇行動だ。
「奴はまだワシらを殺すことを諦めとらん。狡猾で凶暴、執念深いやつらしいの。なぜ、そこまでワシらに執着するのかはわからんが……」
「執着……もしかして……」
ニオタは徐に鼻を鳴らし、臭いの元と思わしきユウの足を抱きかかえると何度も何度も肺いっぱいに貯めこむように嗅ぎ始めた。
「な、なにしてるんですかぁ! 変態なんですかぁ!?」
「おごぁッ!!」
パァンっと乾いた音がシュシュの平手打ちによって響く。
若い少女の足を嗅ぐ男、それはビンタされて当然のような気もするが。
「ご、誤解でござる! ユウ殿! もしかしてベルセルククレフターの体液を身体に浴びたでござるか?」
「んぁ〜……あぁ、さっき死骸を踏みつけてしもうたかもしれん」
「あちゃ〜……でござる」
これ見よがしに額を叩き、ニオタは困り顔を見せて唸った。
「なんじゃ、不味かったのか?」
「不味いもなにもヤバイでござる。ベルセルククレフターが何故、豚や牛などを追いかけて狩ることができるかわかるでござるか?」
「それは足が速いからですよね?」
「それもあるでござるが……奴らは鼻が良いのでござる。死骸を貪った動物を追えるのもそのおかげ。どんな草陰に隠れても無駄でござる」
「ワシについた体液の臭いを辿るっちゃうわけか」
「左様でござる。おまけに奴らは恐ろしいほど仲間意識の強い魔物。時には狩りに時には仲間を殺した仇討ちに、と体液から分泌される特殊な臭いによってどこまでも追ってくるわけで……だから、殺さないように捕獲していたのでござるが……」
ニオタの言葉通りに考えるのであれば、ユウ達がどれだけ細心の注意を払い、物陰に隠れながら逃げ出そうとしたところでベルセルククレフターから逃げる事は困難だということ。幸運にもギルティアに逃げ帰ることができたとしても、臭いを嗅ぎつけたあの巨大な怪物の侵攻によりギルティアは地獄絵図と化してしまうだろう。
人混みに紛れれば体液を洗い流し、衣服を交換する時間も稼げるであろうが、いったいその間に何人の人々が犠牲になるだろうか。中級上級ギルドの手練れを持ってすればあの怪物も撃退、討伐はできるのかもしれないが、駆けつけるまでに相応の時間を要すはず。犠牲者無しという訳にはいくまい。
「1人の命を救ったのが原因で大多数の命が奪われる危険にさらされるとはのぅ。とんだ皮肉じゃ」
「た、倒すしかないってことですかぁ? あんな大っきな魔物を?」
「みたいでござるな。協会殿に頼んだ応援が駆けつけるまでに拙者らの命があれば良いでござるが……」
「阿呆。狙われとるのはワシとインドラの2人だけじゃろうが。ワシが囮になればインドラ1人ぐらいは逃げられるかもしれん。さっさっと連れて逃げろ」
痛む左腕に手を添えながら前進しようとしたユウの肩を2つの手に掴まれ、阻まれる。
「ユウちゃんが1人死ぬなんて絶対イヤです。戦うならわたしも戦います」
「拙者らはベルセルククレフター討伐隊の仲間なのでござろう。ならば、仲間のために命を貼るのが道理。違うでござるか?」
「まさか、さっき自分が言った言葉をそのまま返されるとは思わなかったのぅ」
苦々しげに首を振り、ユウは小さなため息を吐いた。