氷のベール
「……なんだ意外に神様も人間らしい姿をしているじゃないか」
平静を取り戻すためと分析をする時間を稼ぐためのいつもの皮肉を吐いてナルキスはジッと変わり果てたマーシュの姿を睨む。
「人間? 何を仰りますか。内に秘めたるその力は神そのもの。無論、貴方には分かりかねないことですが……」
予想外にも神の肉を喰い、変異して尚、マーシュの自我は保たれたままのようであった。
まさか言葉が通じるとは思いもしなかったが、これは僥倖か。
マーシュから生えた複数の触手が彼を護るように波打つ。加えてどこで学んだのか知らぬが、卓越した剣技と隙のない彼にも言葉が通じるのであれば精神的に揺さぶりをかけ、攻め手を見出せるかもしれない
マーシュの心に響くのはいったいどんな言葉か。
考え、様子を伺うナルキスの眼前に瞬きする間も無く、赤黒く滑った触手迫っていた。
「ッッ!?」
剣を振り、切り裂くより避けに徹した方が無難。そう咄嗟に判断したナルキスは転がるように回避を試みる。
直面した目にも止まらぬ速攻に柄にもなく息を上げ、冷や汗を流したナルキスの頬から血が垂れ落ちた。
「何か良くないことを考えているようですが、今の私には貴方如きが講じた愚策に遅れを取るようなことはありませんよ」
いったいいつになったら学習するんだ。油断による死を一度ならず二度も体験する気なのか。
袖で血を拭ったナルキスの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。だが、それとともに遅れてくる否定と疑問。
自分は油断おろか、相手から目を離してさえもいない。
瞬きを忘れるほどマーシュの一挙手一投足に目を凝らし、何があってもすぐ動けるように準備をしていた。
それほどまでにこの神と融合を果たしたマーシュとの力量に差があるのだろうか。
「……キミを殺したところでこの悪夢に終わりが来るとは思えないからできるだけ温存はしときたかったんだけどね」
授能による身体への負担を感じることができない現状、ここぞと言う時のためまで省エネを貫いてきたナルキスだが、そうも言ってられなくなった。
軽口こそ変わらないが、ナルキス自身が追い込まれているのは確かだ。
そもそも、まだこの世界での死がさしたる意味を持たない、何度死んでもすぐに生き返るという実証がない。もしも、死が悪夢からの解放ではないのだとしたら神に喰われていった人々は何故、未だにこの場に戻らないのか。時が戻されるのであれば、何故この場にナルキスは立っているのか。
おそらく、予想の範疇を出ない答えではあるが、死に戻りには何らかの条件がある。
それが何なのかはわからないが、一方でマーシュの言うように神に身を捧げることがこの悪夢から解放される唯一の手段なのかもしれない。
自ら死を選ぶべきか抗うか。
答えは決まっている。異形の怪物に喰われて死ぬぐらいならばナルキスは自ら首を切り、死を選ぶ。
「……ふぅ」
ため息にも似たナルキスの吐息に混じって空気中にキラキラと光る氷の粒子が舞った。それらは光の乱反射を繰り返しながら宙に留まり、ナルキスを覆う。
血に塗れたナルキスを包む神秘的な氷のベール。神と融合しながらも悍ましい姿に成り果てたマーシュとは対照的に美しくも恐怖心を煽るその姿はどちらが本当の神か。
「……ふむ、あまり良い感じがしませんね」
言いながらもマーシュの触手がナルキス向かって飛んでいく。常人ならば避けることも叶わない神速の攻撃。
ガッ!!
反応することも出来ず、身体中を貫かれて絶命するかと思われたナルキスであったが、その触手の先が氷のベールに触れた時、真っ白な冷気が立ち昇り、そんな鈍い音が響いた。
「正直、どんな攻撃にも反応してしまうこの技は酷く燃費が悪いんだ」
どこからともなく現れた分厚い氷に触手が突き刺さっている。
「自分でも処理できる攻撃は勿論、羽虫にも反応して過剰な防御をするから不便極まりない。だからあんまり使いたくはなかったんだけどそうも言ってられないだろう?」
ナルキスの授能である氷の力を応用した絶対防御の技。常時臨戦態勢によるナルキスの授能の動力源とも言える生命力を垂れ流し、加えて制御が効かず使い勝手が悪い分、その防御力と反応速度は並大抵の攻撃では破ることはできない。
故にナルキスは普段この技を好んで使うことはなかった。
現実の世界ならばこの技の発動によりキャパシティの約2分の1を使用してしまうからだ。
道中に使った分を含めれば軽度であれど眩暈や倦怠感など何らかの異常が現れる頃合い。授能使用による副作用が現れない悪夢だからこそ無茶な手段を取ったナルキスだが、一方でそうせざるを得ないほど追い込まれていたということにもなる。
氷の粒子を身に纏い、一足飛びでマーシュに向かったナルキスに三度、触手が伸びる。
「いやはや……驚いきましたね」
マーシュが感嘆の吐息を漏らすほど鮮やかに瞬時に現れる氷の壁にめり込んだ触手を斬り払って行くナルキス。その刃は瞬く間にマーシュの喉元に届き行く。
ギィンッ!!
あと少し踏み込みが深ければ彼の喉を切り裂き、体内に流れるドス黒い血液を噴き出させていたであろう。
触手の猛攻を潜り抜けたとしてもマーシュにはこの武がある。
雷光のような一閃を剣を抜き、人間とは思えない力と素早さでそれを受けたマーシュ。その不気味な微笑みにナルキスは思わず舌鳴らして飛び退いた。
これ以上その場にいれば危険だと脳が警笛を鳴らしたのだ。