神殺し
果たしてこれほど醜く、悍ましいモノを見たことがあっただろうか。そして、美とは真逆のモノにこれほど目を奪われてしまったことがあっただろうか。
「さぁ、皆さん。救いの時は来ました。こちらへいらしてください」
ナルキスが自身の胸に渦巻く奇妙な感情に気を取られている間にマーシュが肉塊を背に軽く手を打った。
「あぁ……やっとこの時が……」
「救われた……私たちはまた救われる……」
意識を強引に奪う、そんな音ではなかったはずだ。にも関わらず、先程まで終焉の時を待つが如く悲嘆に暮れ、苦しみ、祈っていた人々が亡者のようにゆっくりと足並みを揃えてマーシュの元へ集っていく。
「神は貴方達を救い、清める事でしょう……さぁ、恐れずに……」
肉塊とマーシュの前に行列を作る人々。
その人々にマーシュは穏やかな顔で一言一句違わずに耳打ちをしていく。
「神よ……この者たちは尊きも哀れな貴方の信者達でございます。どうか彼らに救いの手を……」
祈るマーシュ。
その傍らで太く、長い触手が緩慢に重々しく動き、人々を掴み取っていく。
「いぎぃッ……!」
「あがッ!」
「ひぐぅッッ……!!」
握りつぶされる者、ねじ切られる者。
阿鼻叫喚の悲鳴と血に埋め尽くされたその空間。殺され方は様々だが、皆が皆一様に最後は肉塊と成り果て、触手に空いた空洞へと吸い込まれていく。
しかし、不可解なことにも救いを求める人々はその場から逃げ惑うことはなかった。まるで殺される順番が来るのを心待ちにしているように虚ろな目で肉塊となり行く仲間たちを眺めているだけだ。
「さぁ、貴方も神の元へ。恐れることはありません、これは救済なのです」
列に加わろうとしないナルキスにマーシュは微笑をこさえて穏やかにそう言った。
「救済……これが……?」
ナルキスもまた殺され、喰われゆく人々を眺めることしかできなかった。
心にぼんやりと滲む異常。
悍ましいと思いながらもナルキスはその光景に一種の神秘性を感じてしまっていた。
マーシュに背中を優しく押され、ナルキスの足が無意識にゆっくりと動き出す。
半ば割り込むようにして入った行列をさらに人々を押し除け、強引に先頭を目掛けて突き進んで行くナルキス。
ーー救われる。
視界はぼやけ、脳が溶け落ちたようにぼんやりと意識は定まらない。
ーー救われる。
先客を喰い終えた触手の先がナルキスの眼前まで迫り来た時、その唇に一筋の血が伝い落ちた。
ーー救われ…………
「やっぱり違うな。例え本当に救われたとしてもこの死に様は美しくない」
閃光のように瞬く銀光が触手をバラバラに切り裂いた。
この世のモノとは思えない耳を劈くような悲鳴と地響きが巻き起こる。痛みに暴れ、のたうち回る触手達が一気にナルキスに向かって伸ばされた最中、
「まだ頭がぼんやりとするな。身体も重い。キミが何かをしたのかい?」
凍てつくような小さな笑みを浮かべてその全てを斬り伏せて見せた。
飛び散る肉塊の体液、それは全てを飲み込む闇のように深い黒色をしていた。
「思えばここに来た時からずっと調子が良くなかった。本調子の時の4割ぐらいかな。呪いを受けてこの世界に連れられたかと思えばこの世界でもその肉塊から呪いを受けていたのだろうね」
嘲笑めいた独り言を呟きつつ、ナルキスは次々と蠢く触手を切り裂いていく。その度に黒く、粘着く返り血がナルキスを染める。
その姿は神をも殺す悪魔か狂人か。
「でなければこの僕が油断していたとは言えども命を堕としたり洗脳されかけたりするわけがないんだ」
神とは言うが、相手はまだ完全な覚醒状態にない。原因はわからないが、衰弱した身体を休めながら寝ぼけ眼で供物を食い漁っているだけの肉だ。
本調子ではないにしろ、唇を噛み切り、意識を取り戻したナルキスが遅れを取るはずはない。
「さて、これで終わりかい? 難攻不落、脱出不可能の悪夢かと思えば存外大したことないじゃないか」
肉塊から生える全ての触手を始末し終えたナルキスは呆れた素振りでため息を1つ。攻撃する手段を失くし、その場に鎮座することしかできなくなった肉塊、いや異形なる双神に剣を突き立てた。
先程とは比べ物にならないぐらいの悲鳴が空洞内を響き、暴れ回る。
どうやら双神とだけあって感覚の共有がなされているらしく、その一突きは多大な効果を同時にもたらしてくれているようだった。
脈打ち、暴れ狂う肉塊の眼が見開き、ナルキスを凝視する。血走った巨大な眼、呪いと怒りを一身に引き受けてしまうような眼だ。常人ならその場で怖気付き、戦意を失ってしまいそうになるだろう恐ろしい状況であろうとナルキスは冷たげな碧眼で見下ろしながら何度も、幾度も神の身体に剣を突き刺した。
「…………キミの崇める神を殺したんだ。何も言わないのかい?」
暴れ回ることもなく、もう脈打ち、痙攣することもなく。ただその場に転がる巨大な肉塊と化した神の亡骸から剣を引き抜いたナルキスは真っ黒に染まった前髪をかき上げて振り返った。