眠る神々
倒れた聖杯グラスと折れた燭台。荒れ果てた祭壇の先に祀られる女神像は悲惨にも首から上がなく、その頭は不敬にも床に乱雑な形で転がっていた。
その痛ましい有様は道中でも目にしたものだ。てっきり荒廃した街、時の流れによる風化が原因かと思っていたが、どうやら違うらしい。
神を信じぬナルキスでもその光景はあまり気持ちの良いものではなかった。
「気になりますか? 心配なさらず、神はそこにおりません」
「偶像崇拝を拡めたのはキミたちフィリミア教じゃなかったかい?」
微かな笑みを携えるだけでマーシュは肯定も否定もしなかった。
柔和な態度に畏まった所作、その隙間から垣間見える不穏な雰囲気はなんだろうか。気色の悪い感覚にナルキスの警戒心が一層に強まっていく。
ひりついた、互いを心底信用しているわけでないであろう2人の間に肌を刺すような緊迫が生まれる中、マーシュは徐に祭壇の裏を漁り出した。
取り出したのは赤錆のついた聖杯。床に転がっている煌びやかな聖杯とは違って妙に古臭く見えるそれを床の窪みに置いてマーシュは胸に隠していた短剣を引き抜いた。
しかし、ナルキスに殺気の類が向けられることはなく、むしろマーシュはその短剣で自らの腕を切り裂いたのだった。
ぼたぼたと滴り落ちる血液が聖杯を満たし、溢れ出る。赤黒く、粘りを帯びたその液体が床の窪みを伝い、首のない女神像の足元まで辿り着くと石像の土台が轟音を立てて動いた。
「聖職者の血でしか開かないようになっているんです。これならば怪物がここに侵入してくることもなく、安全なのですが、毎度こうして治癒魔法を唱えるのも少しだけ手間なんですよね」
冗談めいた口調で言うマーシュ。だが、ナルキスはそんな言葉に返答はおろか相槌一つ打つことはなく、ただただその地下深く伸びる暗い階段の先を見据えてあの老人の言葉を思い出していた。
絶望は天高く、神は地下深く。
もしもこの先にマーシュの信仰する神が存在していたならば。
この街でも高地に在する聖堂を不審に思ったが、そんなからくりがあったのならば納得せざる得ない。
神に願うのか、殺すのか。この悪夢を終わらせられるであろう根源に近付いている。そんな実感がふつふつと湧き上がって来た。
「……さぁ、早く神に会わせてくれたまえ。キミは僕を救ってくれるのだろう?」
「えぇ、ではどうぞ。私に着いてきてください」
壁にかけてあった燭台を手にマーシュが階段を降りていく。ナルキスはまたそれに黙って続くことにした。
奥に進めば進むほど鼻を抉るような刺激臭が強くなってくる。いったいこの先に何があるのか、もうこの時点でマーシュが平凡な聖職者ではないと断定できるほどだ。嘔吐を促すような強烈な臭いと階下の底から立ち昇るこれ以上とない邪悪な空気。これらを真正面で受けながらも平然とした顔で歩を進めるこのマーシュが異様でないならば何になるのか。
得体の知れない臭気に顔をしかめ、ナルキスは口元を手で覆った。
「大丈夫、心配なさらないでください。神はもうすぐそこに居られます」
その動作を不安からくるものと取ったのか、マーシュは優しく宥めるように言う。
この悪臭に慣れ、麻痺してしまっているのならばそう感じるかもしれない。
控えめに咳き込みながら進むナルキス。階段の終わりが見えた頃、ナルキスの耳に微かな人の声が聞こえてきた。
啜り泣くような小さく呟くような声だ。祈りや懺悔に聞こえなくもないその声の正体を知るのにはそれほど時間はかからなかった。
「……着きました。我らの神の元へ」
長い階段を下り、突き当たったのは地下深くに空いた巨大な大空洞であった。地上、アラオザルよりも古びた建造物の残骸が建ち並ぶそこはその昔、何らかの文明が栄えた遺跡だったのかもしれない。
「はやく……ハヤク……ハやく……」
「もう嫌だ……許してくれ……許してくれ……許してくれ」
「死にたくない……出してくれ……いっそ楽に……楽になりたいなぁ〜アヘヘヘ」
そしてナルキスが聞いたその声の主たちはその瓦礫に身を委ね、身を縮め、祈り、嘆き、悲観している。数はざっと十数人だろうか。
加えてその身なり、口ぶりから察するにその皆、全てがこの世界の者ではないらしかった。
見れば、どこかで見かけたような顔もある。ギルティアの街でなのか、はたまたそれ以前の事だっただろうか。もしかしたら酒の席で見かけただけ、もしくはすれ違っただけなのかもしれない。しかし、その衣服やその胸元についたバッジはどこかで見覚えがある物であった。
そして何よりも見過ごすことのできないものがある。
大空洞の中央に鎮座する巨大な2つの肉塊だ。
形容し難いその存在はただの肉塊と言葉にしていいものなのだろうか。形状としては脳みそ、あの怪物たちの頭を切り開いた際に見たそれに近しい。
だが、この見上げるように巨大な脳みそがいったい誰のものと言うのだ。
2つの肉塊が同間隔で脈打ち、アンバランスとも見える巨大な眼は無感情に揺れ動いている。肉塊の端、触手というよりも太く長い血管のように見える管が時折、蛇の頭のように動く様はなんとも不気味か。
ただ、ナルキスはそれを見て不思議ながら直感的にこの異形な怪物、肉塊は眠っている。なんとなくだがわかった。
それはナルキスがこの肉塊を生物として心の底で認めてしまっているのかもしれないという現実だ。