何もない
「ついてるですか……」
違和感の残る両目を小さな手で擦りつつ、シュシュは周囲に目を凝らす。
確かに怪物の気配や不審な物音はない。
崩れた棚の残骸や散乱した工具。投げ出されたように散らばったそれらと廃墟と言っても過言にはならないこの惨状はここで何らかのトラブルが起きた痕跡なのだろうか。
「そうだと……いいんですが……」
「そんなに後ろ向きに考えないで。これは天が与えた僥倖。上に登ればこの街の何か手がかりが見えるに違いないわ」
目的地に辿り着きながらも浮かない顔をするシュシュ。それにブレンダは宥めるような口振りで言う。
「ブレンダさん、それで何をするつもりですか?」
「え? これ?」
落ちていた片手持ちのハンマーを手にブレンダは首を傾げた。
「何をするって……何もこの崩れた棚の残骸を元通りにしようってことじゃないわよ? ただの護身用にーー」
「ーー戦うつもりですか?」
「……シュシュちゃんばかりに頼っていられないもの。私はギルドに所属しているわけでも武芸に心得があるわけでもないけど自分の身ぐらいは自分で守りたいの」
弱き自分を捨てて決めた心。しかしブレンダの振り絞った勇気を否定するかの如く、シュシュは静かに首を振る。
「置いていきましょう。たぶん、わたしたちがどんな武器を持ったとしてもあの怪物たちには敵わない。ただの人ならばまだしも相手は得体の知れない怪物。未知の力を隠し持っているかもしれませんし、人並みの知恵を持っているかもわかりません」
シュシュなりに敵との力量差を分析した結果であった。
「もしかしたら統率を取り、戦略を練って襲ってくるかもしれませんし、囮を使ってわたしたちの気を引いてくるかもしれません。怪物一体にどれほど手こずるのかもわかっていないのに危険を犯してまで戦うのは間違いとまでは言いませんが、得策ではないと思うんです」
「……私たちができるのは逃げるだけってこと?」
「はい。それが今のわたしたちにできる最善の手なはずです」
シュシュは微笑一つ混えず、きっぱりと言い切った。
「武器があるから戦えるはず。その油断が、または逃げ続ける中でそのハンマーの僅かな重みが負荷となり命取りになるかもしれません」
「……戦おうとはしない。逃げなきゃいけないって時にはすぐに捨てるわ。襲いかかって来た怪物を撃退するだけよ」
「ブレンダさんは自分で言いましたよね? 武芸の心得はないって。それにブレンダさんはそのハンマーで怪物ではなくても人と戦ったことがあるんですか? 慣れない武器を使っても意味がないんです。錯乱した状態では尚更に……逃げることさえ忘れて闇雲にその武器を振り回し、頑なに縋りつき、やがて殺される。そんな未来しか待っていません」
「でも……」
「信じてください、ブレンダさん」
あれだけ仲良くしていた2人の間に短くも長い、気まずい静寂の時間が過ぎていく。
「……シュシュちゃんってさ、頑固者って言われない?」
「へ? 言われたこともありませんし、自分では素直で物分かりのいい良い子だと思ってますよ?」
ぷっと息を漏らしたブレンダはハンマーを部屋の隅に放り投げて降参したように両手を上げた。
「う〜ん、たぶんね、言われても気付いていないだけなのかみんな心の中で思っていると思うよ。それでもなければシュシュちゃんの周りこそ本当に物分かりが良くて素直な子たちばっかりなのかもしれないわね」
「なっ、ど、どういう意味ですかぁそれ! 絶対、わたしのことバカにしてますよね!?」
「バカになんてしてないわよ。ただね、ブレンダお姉さんは降参。たぶんシュシュちゃんはどうしたって許してくれないもの」
「……わかってくれたのは嬉しいですが、なんか腑に落ちないです」
ケタケタと可笑しそうに笑い続けるブレンダをじとっとした目つきで睨みつけながらシュシュは不満を漏らした。
「それにしてもさ、さっきのピカーってやつってシュシュちゃんの魔法?」
気まずかった先刻の出来事が嘘だったかのようにブレンダは軽快な足取りで階段を登っていく。
「はい、とは言っても使えるのはあれだけですが……」
壁伝いに塔の最上部まで続いているであろう螺旋階段を見上げてシュシュは言う。
「それでもすごいわよ。私なんて魔法はおろか武芸の1つだって身に付けていない。持っているとしたらお金だけかしら。それも私が稼いだわけでもない親のお金だけどね」
「十分羨ましいですよぉ。ブレンダさんはわたしたちがどれだけ貧乏か知っていますか?」
「ない物ねだりってやつなのかしらね。隣の芝生は何とやらって言うじゃない?」
ブレンダはくすくすと上品に笑った。
「それに魔法は1つしか使えないとは言ってもさ、詠唱って言うの? 何にも唱えずにパパッと魔法を打ち出したのすっごいかっこよかったよ」
「あー……あれはですね」
シュシュは無詠唱の仕掛けが右手にはめた魔法具の手袋にあると素直にうち明かした。加えて、自分が魔具職人の見習い修行中であることも全て。
意外にもシュシュの話を興味を持って聞いてくれたブレンダと身内にまるで魔具に関して興味を持たれないシュシュ。2人の話は大いに盛り上がり、疲れを感じぬまま塔の中腹まで登り終えた。
話の区切りが付いた頃、前を歩いていたブレンダは小さなため息を吐いたかと思えば、ピタリと足を止めて窓の景色に目を落とした。
「少し疲れてきましたし、怪物も今の所出会したりしていません。ちょっとだけ休憩しましょうか」
「ううん、疲れたとかそんなのじゃないの。ただね……」
「ただ?」
「シュシュちゃんはギルド活動に魔具作り、夢中になれることも仲間もなんもかんも持ってて羨ましいなって」
あまりに悲しげなその瞳にシュシュは黙って次の言葉を待つしかできなかった。
「私には親が稼いだお金がある。大事に大事に育てられた、その自覚もある。でも、私が、私個人が胸を張って持っていると言える物は何もない。テーブルマナーや社交界での立ち居振る舞い、そんなものじゃない。胸をときめかせ、人生を捧げられるものは何一つないの。……いいえ、なくなってしまったの。私が持っていた唯一、胸を誇って言える物、エドと彼への愛。残酷な運命に容易く、呆気なく奪われた……」
ブレンダの目から溢れ出した大粒の涙が溢れ出す。
「…………旦那さんは亡くなってしまったかもしれませんが、その愛情はなくなったわけではありません。それにヴェルザーさん、ブレンダさんのお父さんはすごく貴方を心配していました。深い愛情がこちらに伝わってくるぐらいに。使用人の人たちだって同じです。だから、何も持っていないなんて言わないでください。ブレンダさんには周りの、たっくさんの人の愛情を受けて育てられたんですから」
「……そうね」
返答はそれだけであった。
ブレンダの啜り泣く声だけが石壁に反響し、何重にも重なって聞こえ続ける。
黙ってブレンダの弱り切った精神が回復するのを待つしかない。そうシュシュは悟り、それ以上は何も言わずに口をつぐんだ。