無残な死
「何やっとる! 早く逃げんかい!」
山のように巨大な、ベルセルククレフターの親玉と思しき怪物を前にして事もあろうに武器を握り、真っ向から挑もうとしているアグニ、そしてその横に腰の抜けて動けずにいたインドラに向けてユウは声を張り上げた。
当然、ベルセルククレフターの眼がぎょろりと動き、ユウを視認する。駆ける足が重くなった気がした。不気味さもあるが、なにより強いのは恐怖。得体の知れない巨大な怪物の眼は恐ろしいほど無機質で無感情だ。この歳になって恐怖を覚えるとは、苦々しげに口を歪め無理矢理にでもユウは足を動かす。しかし、攻撃をしてくる様子はない。それもあのアグニという敵が目の前にいるからだろうか。
「はぁ? 逃げる? なんで?」
手に携えた剣をぷらぷらと振り、アグニは小馬鹿にしたような表情で首だけ回して振り返った。
「こんな奴でけぇだけだろーが。殺られたソーマが間抜けだっただけだ」
真下で血の雨を受けたであろうアグニは血に顔を濡らし、邪悪な笑みを浮かべて地面に転がったソーマの半身を蹴った。
「言っただろ? オレ様はこの国で王になる男だ。こんなしょうもない化物に殺られるような運命がよういされてるわけもないし、なによりこいつをぶっ殺せば周りもオレ様の強さを認めるってもんだぜ。箔がつく。皆がオレ様にひれ伏し、崇める」
何故、こんな男を助けに戻ってきてしまったのだろうか。
自分を愛し、愛した女性の死に悲しみの色を見せるわけでもなく、亡骸をぞんざいに蹴りつけるようなこの男をどうして……。
助けに来なければよかった。
死んで当然の人間なのかも知れない。
先程、ニオタが口に出した言葉が丸々、自身にのしかかり、覆いかぶさる。
ゆっくりと力が抜け落ち、忙しなく動いていた足が止まっていく。
軽蔑、疑心、侮蔑の眼を向け無表情に立ち止まるユウに何か勘違いしたようにアグニは薄い笑みを浮かべた。
「そこで見てな。すぐこの化物をぶっ殺してやるからよ。オレ様に惚れるなよ?」
ザッと砂埃を立ち上げ、アグニは剣を手に突進していく。
立ち姿、剣の構え、スピードとどれをとっても申し分ない。きっとアグニもまた、自身を強者と考え、闘いに飢えた人間なのだろう。
振るわれた太刀筋は見事なものだ。アグニも腕っ節にそれなりの自信を持ったものに違いない。
確かに大口を叩くことだけはある。
ユウの世界ならば天才、達人と呼ばれてもおかしくはないはずだ。
「……違う。自信と驕りは違う」
ベルセルククレフターの硬い攻殻に弾かれる剣戟。どれもその身を覆う殻に極わずかな傷をつけるだけで身には届いてはいない。
「ちっ! カッテーな! 調子こきやがって!!」
ユウの呟いた言葉がアグニの耳に届くわけもなく、鈍い音を響かせて猛然と剣を振るう。
その様をすぐ様、反撃するわけでもなくジッと見下ろしていたベルセルククレフターはのっそりと身体を揺らし、ハサミを動かした。
人間が小虫を相手にするように、連なる攻撃は意にも介さず。腕に止まった小虫を叩き潰すようにゆっくりとアグニの頭上までハサミを持ってくるとーー
「いかん! 逃げろ!!」
ーー躊躇なく、それを振り落とした。
「あぇ?」
喉が裂けんばかりにユウの言葉がようやくアグニの耳に届いたと思ったその刹那、こちら側に振り向いた形でアグニの頭がぺしゃりと潰されていくのが見えた。
「あ……あ……アニ……キ……??」
地面を這いずり、逃げ惑っていたインドラがその刹那の時間を目の当たりにし、唇を震わせる。
農耕地にでかでかと空けられた巨大な穴の中央で血飛沫を吹き出し、地を真っ赤に染めながら痙攣する兄の姿を目視したインドラの顔が一瞬にして青ざめていく。
だが、生きている。
この地の医療がどれだけ発展しているのかはわからないが、『授力』という不思議な力が存在しているこの世界だ。絶望的なあの状態を救う手立てがあるかもしれない。
「なんでワシは足を止めた。大馬鹿者がぁ!」
次にその大槌のようなハサミの一撃が自身を襲うかもしれない。そんな考えは微塵もなかった。ただあるのは目の前の惨事を目の前にいながら止められなかった自分を恥じる気持ち。
死んでいい人間なんていない。
もしいるのであれば、自分はとうの昔に死んでいるはずだ。
決して褒められた生き方をしてきたわけではない。それに比べればアグニの行いなんてーー。
「か……か……カヒュー……カヒュー……」
飛び出した片目、あらぬ方向に曲がった四肢、バネのようにひしゃげた身体。生きているのが不思議なぐらいの満身創痍だが、まだ死んでいない。
汗が浮かぶ拳を握り、ユウはまた足を動かし始める。……が、
「あ、アニキぃ! 逃げろ! 逃げてくれ! 頼むから逃げてくれ!」
ベルセルククレフターのハサミがまたアグニ向けて伸ばされる。
悲痛な叫びと懇願するようなインドラの声に反応するわけもなく、アグニは喉から漏れ出るような呼吸音をさせて小刻みに身体を震わせていた。
コリンッ!
絶叫するインドラの声の隙間で確かにそんな音を聞いた。
ハサミに握られるアグニの片目からずるりと眼球が抜け落ちる。赤い粘着性を持った液体を滴らせながら、ハサミでちぎり取られたそれは流動的な動作でベルセルククレフターの口の中へと吸い込まれていった。
「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!」
肉親が食われる瞬間、それを見たインドラの悲痛な悲鳴が木霊する。
残ったアグニの身体にまるで親が獲物を仕留めるのを待っていたかのように何処からともなく現れた無数の子供達が群がり、貪り食っていく。
水気を帯びた不快な音をさせ、見る見るうちに肉塊へと変化していく兄の姿。
あれほどまで減らなかったアグニの憎まれ口はもう聞けない。
青空を見上げたインドラの両目から大粒の涙が滝のように溢れ出した。
「嘘だぁ……アニ……キィ……王様になるんじゃ……なかったのかよぉ……」
完全に戦意を喪失し、精神をも崩壊したインドラはベルセルククレフターの目が次はお前だと言うように自分へ向けられたことを知らない。
「もっと速く走らんかいこの細足がぁ!」
それを見ていたユウは長い距離を全力疾走し、震える足に向けて喝を入れながら尚も足を動かす。
「何がワシの道じゃ! 何が漢が廃るじゃ! まだワシは誰も助けられとらん! ワシは何のためにここへ戻った! 誰も助けられんようじゃ、それこそ漢が廃るわぁ!」
地を蹴り、怒涛の勢いで走り寄るユウ。視界にはインドラとベルセルククレフターの姿しか目に入っていない。
それがいけなかった。
駆ける足の先、そこにはアグニらが築き上げたベルセルククレフターの子達の死体の山。
グシャッ!
と、ひしゃげた音と共に青緑色の飛沫がユウにかかる。酷い臭いだ。嗅げたものじゃない。
頬に垂れた液体を袖で拭ったユウの耳を劈くような雄叫びが貫いた。
「ギイィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!!」
この世のものとは思えぬ、身の凍りつくような声にユウも堪らず顔をしかめる。
インドラまであとほんの少し。あと一歩で手が届きそう。
「……クソッタレが……」
ゆらりと頭上から光を遮る巨大な影。
ベルセルククレフターは牛や豚などの家畜をも捕食対象とする。死骸を漁るのではなく、狩りをするのだ。
忘れていた。
個体としてその素早さを持っているならば、この山のような化物も同じ。
速い。恐ろしく速い。
薙ぎ払われた巨大なハサミがユウの真横から叩きつけられる。
ミシミシッと骨が軋む音がした。
例えるならば、そうクレーン車に吊り下げられた鉄球を打ち付けられたような。無論、そんな経験はユウにもないのだが、そんな印象を受けた。
強いて言えば幸運だったことは、不意打ちではなく、直撃する前に気付けたこと。そしてケンカなれしていたこと。
おかげで反射的に構えた左腕で防御することにより、意識が飛ぶことだけは避けられた。
強烈な一撃を受けたユウの身体は弾け飛び、空へ高々と打ち上げられた。