古都アラオザル
ナルキスが周囲を探索し、思考を整理するまではそう時間を要することはなかった。
霧が薄まり、姿を現したのは堅牢な石造りの大門。それから背を向けるようにあるけばこの場所が海、または湖、水に囲まれた土地であることがわかった。陸地に繋がっていたであろう橋は気の遠くなるような年月が経ち風化したように朽ち果ててしまっている。見渡す限りはこの崩れた橋が外へ出る唯一の手段のようだ。
「泳いで向こう岸まで渡ってみてもいいが……無駄な労力を使うだけだろうな」
この橋の先、例えこの橋による通行路がまだ生きていたとしても無駄足になるだけだとナルキスは確信めいた予想を立てた。何か確実な根拠があるわけでもないが、この場所に自分を連れてきた主はまるでその主の元へ招き入れているように感じたからだ。きっとこの橋の向こう、深く霧がかったその先は見せかけに違いない。
踵を返し、あの石門へと足を向けた矢先にナルキスは折れて地面に落ちていた木の立て看板を見つけた。
「……アラオザル」
木は酷く痛み、文字は掠れて読みにくいが辛うじてそう読み取れた。それはあの石門の奥に広がる街の名前だろうか。
「なんだろうな……聞いたことがあるような……」
腕を組み、深く考え込んでみるが答えは出ない。聞いたことがあるような気がするだけなのかもしれない。何にせよ、この場に留まって時間を浪費するのは悪手だと考えたナルキスは改めて、石門へ戻ることにした。
「……古い。確かに古い門だが、朽ち果てた橋と同じ年月を辿って来たとは思えないな。橋の後にこの街が作られたのか? それに……」
キィィッと金属の擦れる音がして門が開いた。
「ははっ、どうやら本当に招き入れてるつもりらしい」
臆することはなく、しかし警戒は怠らずにナルキスはその門を潜る。
大昔に作られた石造りの街。
そういうふうにも見える。
足元に転がっていた馬車の残骸と馬の骨らしきもの踏み歩き、辺りを見渡した。
やはり不可解だ。
この石門、一見、いかにも古代らしい作りになっているが石造りなのは外枠だけで中は飾りのついた金属状の柵門。足元に転がる馬車の残骸から考察すればそれほど昔の型式のようには見えない。さらに先に広がる街並みは確かに古代文明が色濃く見えるようにも思えるが、要所要所で近代建築の様式や精巧な飾り戸、石畳によって舗装された道と時代が明確ではない。
「まるでツギハギの街だな。僕が考古学に精通していなくてもよくわかるよ」
ツギハギの街。またはツギハギによって延命された建造の街か。
何とも気持ちの悪い感覚もするが、ナルキスは止めていた足をまた動かし始める。
すると間も無くして少し離れた場所から物音が聞こえてきた。椅子の揺れる音、衣擦れ、転がるガラス瓶、そして人から発せられるであろう呼吸。それらはこの静まり返った街の中で嫌にハッキリと聞こえてくる。
「…………あぁ……」
椅子に座り、酒を煽りながら虚空を見つめる老人。近付くとその男は緩慢として気怠げに振り返り、吐息のような声を漏らした。
「少し話を聞きたいのだけれどもいいかい?」
酷く小汚い格好で酒を飲む老人に返答はない。
よれたシャツや泥と黒いシミのついたズボン。頭に被る帽子も型は崩れ、見るからに良い生活はしていなさそうだ。
「キミはここ、このアラオザルという街に住んでいるのかい? 僕は眠っている間にこの場に連れてこられてしまったようなのだが」
構わず、ナルキスは質問を投げかける。
「この街はどうも普通じゃない。まるで人の気配がしないじゃないか。ここに住んでいるキミなら何か知っているんじゃないかい?」
男は振り向きもしない。聞いているのかいないのかわからないまま酒を煽るばかりだ。
「土地勘もない。何か地図のような物があるならば貰えないか? もしないなら口答でいい。大体の情報を聞くことはできないかい?」
聴きながらもナルキスは腰に刺した剣から手を離さなかった。不可思議な状況、得体の知れない街で何が起きてもおかしくはない。この覇気のない老人が襲いかかって来てもなんら不思議なことではない。
「……あぁ……また異邦人……まるで終わらないじゃないか」
「終わらない? 何のことだ」
「夢を見ているようだろう? ……夢は皆、いい夢とは限らない……ヒヒッ……まるで悪夢じゃないか……ヒヒッ、ヒヒヒッ」
「……気でもふれているのか?」
長く白い髭に覆われた顔には赤みがさし、垂れ下がった目は蕩けている。典型的な酔っ払い。怪しい呂律、震える手でほぼ規則的に酒を煽る様はアルコールに依存してしまっているのだろうか。
会話の通じないことに苛立ち、ナルキスの口から自然と悪態が出た。
「……酔っているように見えるか? あぁ……酔えたらどれだけいいことか」
しかし、男は気にした素振りは見せない。
「空を見上げよ。絶望は天高く、神は地下深く……あぁ……神様……神様……ヒヒッ、ヒヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」
「……話すだけ無駄だな。酒で頭までやられてしまったようだ」
支離滅裂な言動に呆れ返り、ナルキスはため息を吐く。
情報を聞き出すことを断念したナルキスが背を向けるとその背中に囁くように男は呟いた。
「死を恐れるな。死は始まり……死は全てを無に帰す。死ぬのは怖い、だが逃げてはダメだ。ヒヒャ、ヒヒャヒャ、ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」
「おい、どういう意味だ?」
いちいち訳の分からない事を話す男に苛立ちながらナルキスは言葉の真意を問いただそうと振り返る。
「……何がいったいどうなっている」
そこに男の姿はなかった。
地面を転がるガラス瓶がナルキスのつま先に当たる。酒は一滴たりとも入っていない。白く濁った古いガラス瓶はまるで初めからこの場にあの老人など存在していなかったと示しているようだった。




