離脱の覚悟
「……え? あ、あ……え……」
「キミは自分の名も答えられないのかい?」
「違いますよ。手紙の束を出す前、話もできないぐらいに泣き出しちゃう前、1番最初にしっかりと名乗っていましたよ。蚊の鳴くように小さな声だったので私は聞き取れませんでしたが」
男がここを訪ねてはや30分程になる。散々、小馬鹿にした態度で聞く耳も持たず、追い返そうとしていた相手だ。その名前をこのタイミングで聞き直されるとは男は思いもしなかったのだろう。狼狽え、言葉を詰まらせる男に対し、ナルキスは謝罪や申し訳なさを態度に現すことはなく、むしろ傲慢でいて不遜に足を組み直し、鼻で笑った。
「ふむ、ならば今一度名乗りたまえ。この時を置いてキミは話す価値もない冷やかし者から代わり、正式な依頼者となったんだからね」
「よく偉そうにそんなこと言えますね……。相手はギルティアの中でも有力な豪商の主なんですよ?」
ドルトニス家。その名前は働きに街へ出るシュシュのみならず、情勢に疎いナルキスでさえよく耳にする。そのドルトニス家がグェン同盟の傘下であったことまでは知らなかったが、輸入業で莫大な資金を抱える豪商を取り込むことができればギルドにとって大きなプラス要素になる。そればかりかこの国の臨時的な政治の一角を担う上級ギルド、グェン同盟の資金力を奪うことで実質的に力を削り、先の王位争奪戦を有利に進めることができるのは間違いない。それならばユウのいない留守を預かる身としてこれ以上にない成果を上げられるはず。きっとユウも自身を褒めてくれるだろう。
先日は自分のいない留守を襲われ、事もあろうにギルドの主に深い傷を負わせてしまった。自分がいればそうはならなかった。この間抜けな桃髪の女なんかよりも自分こそが最も優れ、彼女の背中を護るに相応しい人間なのだ、とわかってもらう。痴態を取り返すためのここで認めてもらわなければならない。そうナルキスは考えた。
「ヴェルザー・ドルトニス。それが私の名前です。で、では早速娘をーー」
「ーー早まるなヴェルザー。まだ僕はキミの依頼を引き受けるとは言っていないだろう」
絶望に満ちた顔に僅かな希望の光が差したヴェルザーであったが、言葉を遮ったナルキスによってその顔はまたすぐに曇ってしまった。
「依頼を引き受ける前に確認したいことがある。いいかい?」
「は、はい……」
「キミは娘を助けるためならば何でもするそう言ったね。それに間違いはないかい?」
「む、娘を救っていただけるのであればどんなことでも!」
そう言ってみせたヴェルザーにナルキスは満足そうに口の端を少しだけ上げた。
「ま、まさか! ナルキスくん、私みたいな美少女をブサイクブサイク言うからもしかしたらと思いましたが、まさかそっちの世界の人だったんですか!? そう考えるとナルキスくんが大好きなユウちゃんだってそこら辺の男の人より男らしい……なんだか納得できちゃいます!」
「訳の分からないことを言うな。僕はこんな醜く、年老いた男になんか興味はない。僕が愛するのはこの美の化身たる僕自身と燦然と輝く女神ユウ様、そして……いや、話が逸れたな」
ナルキスはバツの悪そうに小さな咳払いをする。
「僕が聞きたいのはドルトニス家が僕達のギルドを今後、全面的に支援する約束ができるのか、ということさ」
「支援? 支配もしくは資金の全てを譲ってもらうとかではなくてですかぁ?」
「シュシュくん、キミは実に物騒で貪欲で醜いな。まさに醜悪の化身。とても同じ人類とは思えないよ」
「なっ! だ、だって!」
「確かにドルトニス家の利権、資産の全てを貰うことで僕達は一気に莫大な富と力を手に入れるだろう。だが、それは一過性のものに過ぎない。キミには理解できないかもしれないが、商いと言うものはキミが考えているよりもずっと難しいものなんだ。僕達が商人の真似事をしたとして持って数ヶ月。いや、もっと早く衰退するのは目に見えることだ。ならば、経験と知識を有するドルトニス家に経営の方は任せてその数割を計上してもらう。短い期間で換算すれば貰える額は少ないが、持続的な収入が長期間、定期的に入ると思えばどっちが賢いかなんて馬鹿でも判断がつくと思うがね」
くどく長い言葉責め、それが終わったかと思えばすぐさま矢先はヴェルザーに切り替わる。
「それで、キミは了承できるのかい?」
「問題ありません」
「僕達に支援するということはつまり、ドルトニス家はグェン同盟の傘下から抜けると言うことだ。その意味がわかっているのかい?」
問題はそこだ。ギルドの資金なんてものはおまけでしかない。基本、ギルドの資金は兵力の補填、武装の購入などに使われるものだが、そんなもの後からどうとでもなる。最悪、他ギルドから力付くで奪えばいいし、なんらかの外道で非合法に稼ぐことをしたっていい。ユウに至ってはそんなもの必要としていないのかもしれないが、下級ギルドからのし上がるには相応の金があるに越したことはないのも確か。
だが、今回に限ってはそうではない。目的は巨大な後ろ盾を得ることが第一ではなく、グェン同盟の力を削ること。それこそが優先すべきものだ。