危険な香り
草陰に潜んでいた巨大ザリガニを挟もうとするユウの手が不意にピタリと止まった。
なんだろうか、妙に胸が騒つく。
にじり寄っていた奇妙な雰囲気をいち早く感じ取ったのは極道という組織に身を置き、その地位から常に命を狙われるという状況下にいたユウだった。
見渡せば、黙々と作業に取り組む面々や熱心にカゴいっぱいのザリガニを楽しそうに取るシュシュ。時折、こちらを振り向いては手を振ったり、自身が捕まえたサイズをアピールするようにドヤ顔で見つめていたりするが至って平和な光景だ。
遠目に見えるアグニ達が何やら馬鹿笑いをしながら騒いでいるがそれでもない。若者が大声を上げて周囲に迷惑かけることなどユウの日常ではごくありふれた光景だ。
今更それに苛立つようなことはない。カラスの鳴き声や犬の鳴き声、猫の発情期と同じなのだ。
ならば、なぜこうも不安に駆られるのか。
今になって単身、この世界で女となって生きることに怖れを感じているのだろうか。いや違う、そうじゃないと確信を持って言える。
これはそう、襲撃を受け全身を銃弾で撃ち抜かれたあの日の朝、ユウが人生において唯一死の淵に追いやられたあの時にも似た何か不気味なものを感じる。
「ユウ殿、調子はどうでござるか?」
険しい顔つきでその場に立ち、考え耽っていたユウの横面に問われた。ニオタだ。
どうやら、この依頼の取り締まり役を請け負っているこの男は皆の仕事ぶりを見るために時折、こうやって声をかけてくる。それも仕事の内なのだろう。
「どうもこうも見てみぃ。この籠いっぱいのザリガニを。これだけじゃないぞ、あっちにある満タンの籠2つも全部ワシのじゃ!」
木の陰に置かれた所狭しとベルセルククレフターの詰め込まれた籠が揺れ動く様を指して、ユウは誇らしげに胸を張った。しかし、その横にはシュシュの獲った籠3つには敢えて触れず。やはり、田舎暮らしでベルセルククレフターの捕獲に慣れているシュシュには敵わないようだ。
「おぉ、これはこれは。拙者達も負けていられないでござるなぁ」
見た目の割にこのニオタという男は気遣いというものが上手いらしい。「その横の大量のベルセルククレフターを獲ったシュシュ殿はもっとすごいでござるな」などとは野暮なことは言わず、心からユウの成果を褒め、感心するように顎を撫でた。
「……それよりも隊長。なぁんか変な感じがせんか?」
「た、隊長? 拙者のことでこざるか? フヒッ、光栄でござるがなんだか照れ臭いでござるな、その呼び方は」
「討伐隊を取り仕切る長なんじゃから隊長で間違っとらんじゃろ。それで、なんか感じんか? なんじゃろなぁこう首筋を冷たいものが撫でるような……のぅ?」
「変な感じでござるか? うーん……別に何も。強いて言うならばあのアグニ殿たちにいささか憤りを感じてはいるでござるが……。まぁ、それを帳消しにするかのようにユウ殿たちのような女子が来てくれたことによりなんとか士気は保たれている感じでござるな」
可愛い女の子たちの前ではついついカッコつけてしまう。それはどこの世界においても同じらしい。
元より、アグニ達のようなタイプとニオタ達のようなタイプが意気投合するとは思えない。それに少しの不満を持つのは当然のことのように思えるが、ユウが言いたかったのはそんなものではない。
「う〜む、ワシの思い過ごしかのぅ。なら良いわ。悪かった、変なことを聞いてしまったのぅ」
「いや、拙者の方こそ愚痴のようなものをこぼしてしまい、見苦しかったでござる。そ、その隊長としてもっと自覚を」
「はっはっ、その心意気じゃ。頭たるものドンとでかく構えにゃならん。いちいち細かいことを気にしとったらいいことないぞ」
どうやら少々、過敏になり過ぎてしまったらしい。この世界で生きた者が何も感じないと言うならばそうなのだろう。
そう割り切り、ユウは去りゆくニオタの背に手を振り、またベルセルククレフターの捕獲もとい駆除作業に戻ろうと視線を落とす。
「……ん?」
地面が揺れている気がする。地面に転がった小石が小刻みに揺れ、跳ね動く。草木が騒めき、空を鳥達が悲鳴を上げて飛び惑う。
気がするのではない、実際に揺れているのだ。
どうやら異変に気付いたのはユウだけではないらしい。作業をしていた皆が手を止め、周囲を見渡していた。
「ユ、ユウちゃん! なんか地面がーー」
「……揺れとるのぉ。地震か」
駆け寄ってきたシュシュが不安そうな顔でユウの腕を抱いた。膨よかな胸が当たる感触にたじろいでいる余裕はない。
危ない香りがする。
そう思った矢先、突如地面を突き上げるような振動が討伐隊を襲った。
急な浮遊感、激しく振動する地面。立っていることさえままならない。諸共、地面に尻餅をついたユウはシュシュの頭を抱いてその場でジッと振動が止むのを待つが、一向にその気配はないどころか揺れは大きくなるばかりだ。
いくら百戦練磨のユウとは言えども自然災害には手の施しようがない。胸元で悲鳴をあげるシュシュを力強く抱きしめながらユウは困惑し、打開策を考えるがそんなものも見つかるはずもなく。
「きゃあぁぁぁあああ!!」
思考を分断するような悲痛な悲鳴が響く。
見れば、そこには巨大、今まで捕獲していたベルセルククレフター以上に大きな『怪物』がソーマをビルさえも薙ぎ払われてしまいそうな大きなハサミでギリギリと締め付け、掲げていた。
全長、10メートル。いや、それ以上か。巨大な建物が地を揺らし、歩いている。直感的にそう思った。
「な、なんじゃあれ……」
同じ陸上生物で見た最大サイズの生き物と言えば、動物園で見たアフリカゾウぐらいか。それをも遥かに凌駕する巨大生物を前にユウは大きく目を見開き、固まる。
「はわぁ……あれ、ベルセルククレフターなん……ですか?」
「阿呆、こっちが聞きたいわ。お前は150センチぐらいとか言うとったじゃろ。今まで捕まえた個体はそれを下回っとったからとんだ拍子抜けじゃ思ったら次は山見たいのが出てきおった。いったいどうなっとる……」
前方に草木を薙ぎ倒し、山間から突如姿を現した巨大なベルセルククレフターを目にしたシュシュもまた口をぽかりと開けて固まる。
「まずいのぅ」
ベルセルククレフターの見せた動きから察してユウは再び、シュシュを胸元に引き寄せた。
「はわっ!」
シュシュの顔面がユウの胸に沈む。息苦しく暴れるが、一向に抱きしめた手を離そうとしないユウは静かに落ち着いた口調で囁いた。
「見たらいかん」
距離は少し離れているが、どんな音がしたのかなど容易に想像できる。
ソーマを挟んでいたハサミがギリギリとゆっくり閉じられ、その下に血の雨が降り注いだ。わずかに遅れて粘度を持った2つの塊が重く水気を含んだ音をさせて地面に叩きつけられる。
両断されたソーマの遺体だ。
人死にに慣れているとはいえこれほど悍ましい死に様を今まで見たことがあろうか。
ユウでさえ、視線を離せず、身動きできないまま見送った死は未だかつてあっただろうか。
「ユ、ユウ殿! すぐに避難を!!」
この惨状だ。慌てた様子で逃げ出そうとするニオタの声が遠くから聞こえてくる。
木陰にいたギルド管理協会の監査員もいつの間にかニオタや他の面々に混じって怪物から離れようとしていた。
「避難……ならぁ……」
抱いていたシュシュを離し、ニオタの方へと背中を叩いたユウはなんとか立ち上がり、呟く。
「あの若僧たちはどうするんじゃ」
誰かに言うわけでもなく、自身に問いかけるような小さな声でユウは真っ直ぐにベルセルククレフターを睨みつける。
「ユウ……ちゃん……?」
「おう、シュシュ。お前は隊長と逃げろ。ワシは……ちいとばかしあっちに用がある」
そう言い残し、ユウは土を踏みしめゆっくり歩み出す。
不意に肩を誰かに掴まれた。
それはシュシュではなく、ユウの異変に気付き駆けつけてきたニオタであった。
額に浮かぶ汗と息切れた呼吸が慌ててユウを止めに来たのを物語っている。
「ユウ殿、冷静になるでござる! あんな化物に勝てるわけが……ましてやユウ殿は丸腰。武器も持たずにどうやって! 今、協会委員殿に応援申請を頼んだでござる。半日もすればすぐにーー」
「半日も待ってられるかいな。今すぐにあいつらを助けな、亡骸で見つかるのがオチじゃ」
冷静を欠いたわけではない。いや、むしろ辺りが静寂に包まれたと錯覚するほど精神的には落ち着いている。研ぎ澄まされたと言ってもいい。
「それにワシはケンカするにはステゴロ一本と決めとる。チャカなどの武器は持たん主義じゃ」
「あんな化物に素手なんて馬鹿げているでござる! ユウ殿はあれには勝てない! ここは黙って応援をまって中上級ギルドの人に任せるでござる!」
「なんじゃあ……じゃあ、あいつらは見殺しにするんかいな」
「……あんなヤツら生きていてもきっと人に迷惑かけるだけでござる。そもそも、あの化物を呼んだのだってきっとあいつらが何か良からぬことをしたからに決まってるでござる! だからユウ殿ーー」
ニオタの頬をユウの細腕から放たれたゲンコツが深々とめり込み、貫いた。
切れた口内からぼたぼたと血が滴る。尻もちをつくように後ろ向きに倒れたニオタは訳も分からず、口元を拭って拳を振ったユウを見上げた。
「あいつらの態度がどうだろうと歴としたこの討伐隊の一員じゃろうが。その隊員が1人もう殺されとる。次は残りの2人じゃろうと学のないワシでも容易に想像つく。それを見殺しにするとは……お前は隊長失格じゃ。頭なら己の命賭けてでも部下を守るのが道理じゃ。……が、いち早く危険を察し残りの仲間を救おうとしたのは評価しとるわ。じゃから、シュシュを頼んだぞ。ワシはあいつら連れてすぐに追いかけるわ」
か弱そうな少女の背中が不思議と大きく見えた。それはまるで大軍を率いる将のような、上に立つに相応しい大きな器を持った何かに。
「ユウちゃん! 死んじゃいますよ! 行かないでください!」
「阿呆。ワシが死ぬかいな。ワシは神田の人食いザメ、ゲンコツのユウちゃん。全身に銃弾を浴びても死なんかった不死身の男じゃ。すぐにあの馬鹿共を連れて戻ってくるわ」
今にも泣き出しそうなシュシュにそう告げてユウは怪物の元へと歩を進めていく。近づけば近づくほど今から対峙する相手が巨大で恐ろしいものだと実感したが、ユウに恐れはない。
「仲間の死を放り出して逃げるなんてことはワシの道に反する。漢見せたるわ、待ってろ怪物ザリガニが」
山のように聳え、凶悪なハサミを鳴らす怪物を見遣り、ユウは力強く拳を握った。