血桜の行方
耳をつんざくような悲鳴が、恨みつらみの呪いの言葉が、敗北を認めようとしない罵詈雑言の数々が、聞こえるわけでもない。が、それらの全てが大釜の中でもがき、暴れるメルルの表情から感じることができた。殺してやるか、許さないだろうか。もしくは天を衝く程の雄叫び、悲鳴だろうか。
メルルの肉であった物、可憐な少女からは遠くかけ離れた、どろどろに溶けたその姿、その口から嘔吐するように吐き出された酸性の溶解液が周囲に飛び散っていく。
「……ガキん頃にのぅ、買ってもらったスライムが風呂場で溶けてしまったのを思い出した」
頬に飛散した肉片と溶解液、ユウの肌を焼く音と臭いが上がった。
「あん頃の経験がなかったら、ワシはここで死んどったじゃろうなぁ……」
遠い記憶を手繰り、懐かしむように言うユウの表情に苦悶や悲痛の色は見えない。それはまるで煮え立つ鍋に腕ごと突っ込んでいることや肉を焼き、溶かす溶解液の激痛など感じぬように。しかし否、人である以上、痛みという外界からの刺激を無視することはできない。感じている、確かにユウは全身を貫く、今すぐにでも崩れ落ち、叫びたいほどの激痛を感じている。
だが、もしもそれに理由をつけないといけなければならないとしたらこう言うしかないのだろう。
ユウは我慢している。
そう言う他にない。
外で稲光のような眩い光が駆った。
いったいどれほどの時間こうして我慢比べをしていのだろうか。蝕む痛みの波に耐え、朦朧とした意識のせいかそれさえもユウに判別はつかなかった。
1時間、30分、いや思ったよりももっと短いのかもしれない。
「雨でも……降っとるんかのぅ……」
いまや、大釜に突っ込んだ手のひらにメルルの暴れる感覚はない。静まり返った室内で釜の底から赤黒い球体が音もなく浮かび上がった。それはメルルのコアに違いない。
「我慢比べは……ワシの勝ちのようじゃ……のぅ……」
赤く爛れた腕でそれを掬い、ユウはゆっくりとメルルのコアを握りつぶす。驚くほどそれは柔らかく、まるで豆腐か何かを潰したように指の隙間から糸を引いて落ちていく。
メルルを人と仮定するならば、それがこの世界に置いて初めてユウが人を殺めたことであった。悪人であったに違いない。メルル自身、ユウなど比べものにならない程の人を殺めているに違いない。
胸がスッと腫れることはなかった。死闘を制し、悪に打ち勝った達成感もない。かと言って、命を奪ったその罪悪感に苛まれることもない。あるのは無、何も感じてはいない。
それほどまでに自分は汚れてしまったのか。
小さく息を吐いたユウはそのまま前のめりに倒れ、気を失いかける最中、こう呟いた。
「シュシュたち……風邪……引かんといいが……のぅ……」
「うぅ〜〜〜くぅちゃんッ! い、いい、いいいいいったいどうしたら、わたしは何をしたらッ!?」
「いいから落ち着けって! マジ、マジマジマジヤバいヤバいヤバいヤバいッ! もたもたしてたらどっちも死ぬからッ! マジでッ! マジだからッ!」
「落ち着けって言われても! くぅちゃんだってさっきからヤバいヤバいしか言ってばっかじゃないですかぁ! 医者なんですよねッ! 医者なんですから早く的確で最良の処置と指示をッ!」
「た・ま・ごッ!! あたし医者じゃないからッ! まだ卵ですからぁッ!!」
「卵も何もわたしからしたら一緒ですよぉ! それに闇医者とか言って調子に乗っちゃってた時期もあったじゃないですかぁ!」
「いやいや、マジあれはさ、自分のテリトリーでしょうもない怪我をさ、処置も適当に闇売買されてる薬品とかでやってたわけでさ今、この状況、ここにあるものだけで明らか死にかけてる奴を救う、1人ならまだしも2人とかさ、冷静に考えて無理じゃね?」
パコんと弱々しくクララの頭をシュシュの手が打った。
「救えぇぇぇぇええぇぇぇぇぇッ!! 何が何でも救えぇぇッ!! 腕が足りないなら4本にでも生やして今すぐ救えぇぇぇ!!」
阿鼻叫喚。初めての悲惨な現場治療に目を泳がせるクララに泣きじゃくり救えと叫び狂うシュシュ。わたわたと探り探りながら何とか緊急治療を終え、ユウが目を覚ますのはこれからもう少し先のことである。
「………………来たか」
草葉の影が揺れる音を聞き、朝焼けの空を眺めていた顔なしは言う。
「来たかじゃねーよ。そんなみっともない姿になってさ」
「お互いに、な」
まるで見る影もなく、人差し指程の大きさになって小瓶を引きずってきたメルルはそう悪態ついた。
「ま、第一目的の血桜は無事に手に入れたわけだし、これでリュゼ閣下様様の大目玉を喰らわなくて済むでしょ」
「それで、どうだった?」
小さな体を必死に動かして顔なしを拘束する蔓を解いていたメルルは苦々しい顔、吐き気を催したような顔を作り、手を止める。
「いやさ、話を聞いてた時は面白そうなやつじゃんってボクも思ってたんだけどさぁ〜。アレはダメ。ダメダメのダメ。人を殺すのにまったく罪悪感ってものがない。なんつーのかな、戦い強いとかそー言うんじゃなくてさ、精神的なもの? いや、人間相手にしてる気しないんだよ。ホントホント、ボクを熱々の鍋に突っ込んで殺しにかかってくる時さ、瞬き一つしないわけ。もう、絶対殺すマンってやつ? なんとか偽物の核を簡易的に作って暴れるフリして本体を外に投げ出したけどさ、アイツがチョットでも知恵のある奴だったら間違いなく死んでた。もう絶対、相手にしたくないね、ボクは」
「罪悪感か、お前が言えたことか?」
「うるさいな、このまま置いてってもいいんだぞ。早くしないとアイツら追っかけて来ちゃうかもしれないだろ。そん時は絶対、お前なんか置いていくからな」
「ふん、その小さな体でか? それもその大荷物を背負ってだ。数歩先が積の山だな」
「あぁ、本気で置いてこうかなコイツ。キミだってその身体で動けんのかよ。カッコつけてるけど相当、哀れな姿だよキミ」
「怪我なら問題ない。痺れだってとっくに消えてるさ」
「じゃあ、自分でなんとかしなよ……何してたんだよ……」
顔無しは答えず。只々、空を見上げ、メルルが蔓を解くのを待った。
その心中に何を思い、考え耽っていたのかは彼のみしか知る由もない。