我慢比べ
「――ッッ!」
折れた肋骨が体の内側から突き破ろうと暴れる。血の溜まった肺からは聞いたこともないような音が呼気と共に漏れ出る。堪えることもできないぐらい自然に器官から血液が逆流し、ユウの口から吐き出された。
時間がない。
それは部屋の隅に横たわるアウレアのことだけならず、ユウ自身にも言えることであった。
いくらべラムよりは格下とは言え、この世界に生まれ、育ち、力をつけてきたメルルもまた強敵に違いない。元より、簡単に倒せるような相手とは思っていなかったが、こうも深手を負うような相手とも思わなかった。外見上の油断、それもあっただろうが、ユウには最初から明確な狙いがあった。
「さて……ふぅ~~~~~~」
準備は整った。
長く深く息を吐き、ユウは両掌で力いっぱい頬を叩く。全身を蝕むような負傷による激痛とは違い、それは仄かにユウの頬を赤く染め、じんと確かな痛みを与えてくれた。
気合の平手。
ここからは策も何もない我慢比べでしかないのだ。
「根性の見せどころじゃのぅ」
誰かに話しかけたわけでもなく、ユウは自分を鼓舞するかのように漏らし、飛び出す。
「あはははは! やっぱりなんも変わらないじゃないか!」
一目散に自分へ突進してくるユウを嘲り、大口を開けて笑うメルルは輝きのない瞳をギンッと大きく見開く。
「まぁ、ボクとしてはとっても好都合なんだけどね」
ユウの放った右ストレートがそのままメルルの胸元、体内へと沈み込んでいく。
皮膚を焼くような激しい痛み。ちょうどその昔、カチコミの際に投げつけられた酸性薬瓶を投げつけられた時と同じだ。
チリチリと炎でゆっくりと炙られ、皮の一枚一枚をゆっくりと溶かしてくような痛みにもユウはもう顔を苦痛に歪ませることはない。
「ーーーーなっ!?」
そしてメルルはあまりに不可思議なその姿に思わず、驚愕した。
スライムの溶解液は特殊だ。
獲物を溶かし、その生気を吸い己の糧とする特性上、耐えられるとかそういう領域にない。誰しもが薄れゆく意識の中で止むことのない激痛を味わいながら息絶えていく、やがて全てが溶けて何もかもが消えてしまった時、ようやくその痛みから解放されるもの。言わば、魂の吸収なのだ。
それをこのユウという20年も生きていないであろうひ弱な少女は顔色一つ変えず、そのむしろ逆に静かにほくそ笑むように唇にやんわりと孤を描かせた。
「……ほう、好都合じゃ」
まるで焼くような痛みなど初めからなかったかのようユウはその埋もれた自身の腕が簡単には抜けないことを確かめ、ずんと足腰を踏ん張らせる。
ーー押されている?
一歩、また一歩とユウがゆっくりではあるが、確かに力強く進む中でメルルはようやく自身の身体が少しずつ後方に押し出されていることに気付いた。
たが、メルルとて吸収を緩めたつもりはない。その腕は歩を進めるごとに気付けば根元まですっぽりと飲み込んでいた。だが、尚もユウは歩みを止めない。何故、吸収する側のメルルが押されているのか。答えは明確だ。
吸収が間に合っていない。
痛みをもろともせず、まるで重機機関のように力強く、自ら体内に入り込もうとする者に対してはさすがにスライムの溶解液と言えど想定外であったのだ。
「な、なな、なんなんだよお前! 普通じゃないぞ!」
「……痛みのことか?」
もう肩半分が消えようとする中でユウは独り言のように呟く。
「もう30年前に慣れとる」
外見からの計算に合わない答え。
だが、ユウの放った呟きのような言葉に纏われた妙な説得力と圧迫感がメルルの口を固まらせた。
「お、お前、まさか……ッ!!」
何故、ユウは自らの身体を犠牲にしてまで自分を押すという単純な行動を取ったのか。近付く熱気を背に感じ、やっとメルルはその答えを得る。
アウレアがシュシュ達、久しぶりの来客に腕を奮ったシチュー。過去の過ちを悔い、一人孤独に生きてきた老人にはよほど嬉しいことであったのだろう。そこには来客分を足したとしても到底、食べきれないような量が大きな窯に用意されていた。アウレアという火の番を失ったそれはグツグツと煮えたぎり、まさに火を弱点とするスライム族のメルルにとっては地獄の窯と成り果てていた。
「うぐっ……ぐぅぅぅううぅおぉぉ〜ッ!!」
身体が溶ければ核は丸出しになる。死はもう目前。負けじとメルルも踏ん張るが、不思議とこの華奢な少女を跳ね飛ばすことができない。いや、吸収を止めない以上、ユウの体が離れることはないのだから当然であるが、狼狽えるメルルにはそれさえも考えに及ばなかった。
「日頃の土木作業が役に立ったのぅ」
煮え立つシチューの湯気が体に浴びるぐらいに近付いた頃、ユウは勝利を確信したようにそんなことを言ってのけた。
「ぎぎ、ぎぃぃぃぃ!!」
慌てるメルルが両腕を針状に変化させてユウの胸元を貫く。傷は深い。しかし、血の泡を吐きながらもユウは足を止めることない。
「……そいじゃ、我慢比べと行こうや」
不意を突いた足払いがメルルの身体を浮かした。
「ーーーーーーあ」
ふわりと浮いた身体、視線からユウの姿が消えてメルルの視界に汚れた天井が映し出される。
メルルはスライムだ。痛みはない。されど確かに感じた。自分の身体が溶けてゆくその感覚を。