弱者の葛藤
目を開いた視線の先、そこに広がるのは古びた書物や色とりどりの液体が入った小瓶、そして揺れるたびに軋んだ音をさせるロッキングチェアに座る老婆だけである。
「……なるほど。あんたがユウちゃんってわけだね」
アウレアは押し殺したような笑い声を漏らした。
何故、アウレアが自分の名を知っているのか、状況を把握しきれず目を丸くするユウ。
「何故、自分の名を……って顔だね。なに、単なる偶然さ。あんたのとこの無作法な小娘たちとついさっき知り合った、それだけのね」
「なんじゃ婆さん、シュシュとマリーの知り合いなんか」
「知り合い……どうだろうね」
今生の別れと断ち切った魔具作りに再び、意味と誇りと喜びを与え、結びつけてくれた彼女たちは果たして単なる知り合いと括って良いのだろうか。己さえも理解できぬその言葉をアウレアは困ったような笑みと共に小さなため息を吐いて応える。
「……それでお前は何故、『血桜』を欲しがるんだい? お前みたいな小娘がアレを欲しがるのにはきっとなんらかの理由があるはずだよ」
「理由なんてない。ワシがその血桜を欲しい、ただそれだけじゃ……など言えれば格好が付くんじゃがのぅ……」
ボリボリと頭をかいてユウは苦々しげに口の端を歪めた。
「仲間と子供たちが人質に取られた。血桜との交換を条件に無事に返してやるとな」
「狡猾で弱者を弄ぶようなやり口……フェーシエルだね」
その言葉をユウは肯定も否定もすることもなく、己の右手を握りしめ、強く床を叩いた。
「弱者……まさしくそうじゃ。ワシは弱者。風を切って歩いたこの肩もいつしか怯える小物のように小さくなり、自慢じゃった腕っぷしもこの世じゃ通用しないと痛感した。日銭稼ぎのついでに肉体労働を行なって身体を鍛えもしたがそれでも目の前に聳える巨大な壁は越えられとも到底思えない」
ユウは何度も床に拳を打ち付ける。老朽化もあり、割れた床の材木の棘が刺さり、血が滴ろうとユウはその拳を止めようとしなかった。
「そんな時に大事な仲間が、家族と無関係で無垢な子供たちが人質に取られた。昔のワシじゃったら力ずくでそれらを取り返したのじゃろうが、それができんワシは逃げたのじゃろうな」
「逃げた……かい……」
「あぁ、逃げた。罪人ならば僅かに残った良心も傷付くことはなく、そして老婆如きならば己の力でもなんとかできる。それで仲間が救えるならば殺しも仕方ない、とな」
「だけど、あんたすんでのところで思い止まった。なぜだい? 私を殺す気なら毒を撒かれたとて動けるうちに片付けることもできたはずだよ」
「わからん……わからんが、仲間の顔が浮かんだ。ワシが婆さんを殺して目的を達したとしてあいつらは笑顔でそれを喜ぶのだろうか、そんなことを思った。気付けばワシは死を受け入れ、その場に座り込んでいた、それだけじゃ」
ユウの手からボタボタと血雫が落ち、床に赤黒い斑点を作っていく中のしばしの沈黙。
やがて緊張の糸が切れたかのようにアウレアはぷっと息を吹き出して机の上から丸薬を手に取る。
「魔具作りの合間にお前の名前は幾度となくシュシュの口から聞いていたけどね、なるほど。あの子が肩入れするのもなんだかわかる気がするよ。アンタは馬鹿だが悪いやつじゃない」
そう言いながらアウレアはユウの前まで歩み寄り、丸薬を口に含ませる。
「むぐっ……」
口にねじ込まれた異物にほぼ反射的にそれを吐き出しかけるが、アウレアが許さない。溺れるかと思うぐらいの水を水差しから直接流し込み、まんまと得体の知れない丸薬を飲まされてしまった。
「バカタレ。あんなもんが血桜なわけないだろう。アレはつい数時間前、ちょうど新鮮な麻痺毒を仕入れられたから試用してみただけのこと。これはそれを治す丸薬、毒じゃないから安心しな」
「けほっけほっ……じゃとしても飲ませるにももっと方法があるじゃろうが……」
咽せるユウをアウレアは可笑しそうにケラケラと笑うとびしょびしょに濡れたユウの手を取り、赤黒い液体が入った小瓶をそっと手渡した。
その危険性は一目でわかる。まるで生血のように禍々しく揺れる液体は人を狂気に陥れるようでいて、何かに取り憑かれたような破壊衝動が沸々と身体の奥底から湧いてくるのを感じられる。破壊のために作られた非人道的兵器にユウさえも目を離せずにはいられなかった。
「仲間……じゃなかったね。家族を国の宝、子供たちを助けたいんだろう。持っていきな」
母親のように優しい朗らかな顔だった。
「じゃ、じゃが……これがヤツの手に渡ったら……」
「その時は私が責任を取るよ。何もかも全てを私のこのちっぽけな命を懸けて止めてみせる。……だからさ、あんたはそれを仲間を救う道具として使いな」
華奢で小さな手に置かれた指先程の小瓶に視線を落とし、ユウは黙り込む。これがリュゼの手に渡ってしまうのがどれだけ危険なことか、そして目先のことのみを考えてそれを素直にも渡してしまおうという自分はなんとも愚かなことか、と。
そもそも本当にリュゼは血桜を渡したとしてナルキスたちを無事に返す気があるのだろうか。これの存在を知ってしまった者は少なからず禍根になりかねない。あの狡猾な彼女が果たして……。
「オッケー! ありがとじゃあ死んでね〜」
どこからともなく響いた軽く、鼻にかかった声。それと同時にユウの胸元、首から下げていた懐中時計から伸びた透明な槍がアウレアの胸を貫いた。