あなたに言葉が理解できたなら
太陽光に反射してキラキラと輝く鱗粉に危険だとわかっていながらも見惚れてしまった。
数伯遅れてシュシュは我を取り戻し、頭を振り、両手で口元を覆った。
微量ではあるが、吸い込んでしまったのは明らかな不覚。鱗粉が撫でる頬だけでなく、体の内から何かピリピリと焼けるような感覚が襲う。それから徐々に身体の力が抜け落ちていく。離すものかと口元を押さえていた両手も意思と分断されたかのようにズルズルとずり下がっていった。
「ーーぷはっ!」
一応、肺活量には自信があった。
それでも蛇目蝶から無尽蔵の如く浴びせられる鱗粉が止むまでは耐えきれず、シュシュは大きく息を吐き出す。
付かず離れずの距離で蛇目蝶との睨み合い、その緊張が影響を及ぼしたか、普段よりもずっと早い息継ぎであった。
もう反撃する力など残っているはずもない。シュシュ自らが持つ術はもう出し尽くしてしまった。
蛇目蝶もそう判断したのであろう、間髪入れずにシュシュの胸元に止まると鋭く尖った、あの悍ましい口を喉元に突き刺しにかかる。
「…………ふぅ」
泣きベソでもなく、悲鳴でもなく、死の淵に出されたのはそんなため息だった。そのため息に悲観や絶望といった類のものは見られず、どちらかと言えば安堵し、胸を撫で下ろすかのような息。
不穏な気配を感じ取った蛇目蝶は静止、何か得体の知れない不気味さがそれ以上動いてはならないと警笛を鳴らしているように感じたからだ。
「もう十分です」
シュシュの口元が緩む。
恰も、こうして追い詰められていることが思惑通りだと言わんばかりに。
これをいよいよ危険だと察した蛇目蝶はシュシュの胸元から一気に飛び上がる。いや、飛び上がろうとしたが、羽根は思うように動かず、か細い6本の足が草地に着いた。羽根を懸命に動かそうとすれども虚弱な開閉を繰り返すばかりで、風を受け、掴み、宙を舞い上がることなどとてもできそうにない。
文字通り、虫ケラのように地を這うが、これではまるで自身の毒にやられた獲物のようだ。
「あなたに言葉が通じるとは思いませんが、痺れで喋れなくなる前に言っておきますね」
圧倒的捕食者然としていた蛇目蝶にその見る影はない。
その背中にシュシュは語りかける。
「何かの文献で読んだことがあったんです。あなたみたいな黒色で直射日光の影響をまともに受ける蝶は長く飛べないって。あなたの狩りは基本的に受け型。自分の毒にやられた獲物を捕食する、というもの。蝶の中でも長い距離、それこそ島から島へと渡る蝶もいますが、あなたは長く飛べないことを自白するようにわたしたちと出会う度にその羽根を木陰の中で休ませていました。それはそうですよね、あなたみたいにおっきな蝶、飛ぶにはそれ相応の熱量が必要なはず。基本、変温生物である虫が発汗による体温調節機能も持ってあるはずがありません。人間だって炎天下の中で水分も取らず動いていれば倒れてしまうんですから当然ですよね」
敵に向けるようなものとは思えない、自ら人間を自嘲するような困り笑い。
「……わたしがどれだけあなたの敗因を語ろうが、あなたにはわたしたちの言葉が理解できるはすがありません。つまり、わたしが何を言いたいかと言いますと」
シュシュは痺れが全身に回る前、最後の力を振り絞って上体を起こした。
「わたしが何故、あなたに自分から捕食されに向かったのか。何故、逃げながらも森の中に姿を隠さず、この広場を回っていたのか。あなたにもしも、わたしたちと言葉を交わすことができたなら、自分の力に驕らずに思考することができたなら、結果は違っていたと思います」
シュシュの影から口をリスのように膨らませたマリーとクララが飛び出した。
身を隠し、時を待っていた2人。シュシュの決死の行動に涙にまつ毛を濡らしたクララ、無表情にも思えるがその瞳に静かな怒りの火を灯したマリー、どちらもシュシュの頼れる仲間であり、友である。
「わたしだって怒るときは怒るんですよ。本当は傷つけたりするつもりはなかったんですが、マリーちゃんに怖い思いをさせた罰だと思ってください」
シュシュの言葉を理解したはずもなく、幼体化したようにまさに芋虫に身を戻したかのように逃げる蛇目蝶に駆けるマリー。その堕ちた捕食者の羽根を迅疾な刃が切り裂いた。
粉雪のように舞う鱗粉。
痛覚こそないが、それは蛇目蝶が初めて味わう圧倒的な敗北であった。