降り注ぐ毒の雨
初めに蛇目蝶と遭遇してから1時間ほどの時が流れた。
それだけの時間を経たならば、蛇目蝶の警戒心も解けたと言えよう。相も変わらず、森の中心部、吹き抜けとなった僅かな広場の片隅で大木の影に隠れて羽根を休める蛇目蝶は再び、自身に当てられる敵意とも違う不可解な視線を感じ取った。
巨大な羽根を大きく逆巻くように上げて巨大な身体をさらに大きく見せようとする威嚇行動を取る。近付けば鱗粉による毒で痺れさせ、すぐさま己が糧とせんとその様子が言葉などによる威嚇無くして意図することができる。
先ほど己に害をなさんとする輩は3人だったはずが、今回は不可解ながら近付く足音は1つ。また違った者が来たかとは思えども、やはりそれは先と変わらぬ3人の内の1人。桃色の髪を横で結わえた少女であった。
他2人は捕食を怖れ、逃げてしまったか。または、鱗粉を吸いこんだ仲間の介抱にあたっているのか見渡す限りに姿は見えない。
蛇目蝶は隠れもせず、太陽が燦々と降り注ぐ広場を悠然と歩き、馬鹿正直にも真っ直ぐに自分に近付くシュシュの姿をジッと見据えた。
敵は1人、そして彼女が自分に危害を与える術を持たないということは直感的、野生的本能からも簡単に推測できる。ならば、なぜ彼女は1人、自分のもとに現れたのか。歩みこそ淀みはないが、全身を包むオーラでなんとなくわかる。不安、緊張、恐怖と様々なマイナス要素を含む感情が彼女を取り巻いていることに。
結論は至って単純で明快だ。
我武者羅。
そう表するのが一番、近しいだろう。
その証拠にどこから取り出したのか疑問ではあるが、まともに持てもしない手のひらサイズの鉄球を両手持ちの下手投げでこちらに放ってくる。だが、それが届くほどの間合いに易々と入らせるわけもなく、放物線を描いた鉄球は蛇目蝶から数メートルも手前で落ち、草を潰して地面に沈んだ。シュシュなりの威嚇かもしくは挑発行為なのかもしれないが、届かぬ攻撃にわざわざ反応することもない。何せ、こちらには自由を奪う鱗粉がある。こちらから近づかぬともこのままいけばその餌食になるだけだ。マヌケにもそうなれば悲鳴さえ上げることもできなくなった獲物を悠々自適に食せばいいだけのこと。少し頭が回り、逃避の選択をしたならばそれはそれで構わない。この森には獲物はまだたくさんいるのだから。
「うぅ〜ん、寝ちゃいました? 起きてますか? おーい」
鉄球による牽制にも蛇目蝶は動く気配はない。まさか、気付かれていないのではと手をメガホン代わりに呼びかけてみる。声に呼応するように蛇目蝶の羽根がパタパタと小刻みに揺れた。寝込みを襲えるかと思ったが、そうも上手くはいかないらしい。
自暴自棄にも思える苦笑いを浮かべてシュシュは小さく首を振るとまた蛇目蝶へ真っ直ぐに歩み始めた。
あちらから飛びかかってくれるのがベストではあったが、シュシュにはもう蛇目蝶を驚かせたり、挑発したりする術はなかった。
シュシュの魔力量は普通より少ないぐらい。魔力の過多な消費は体力を削られる。魔法に対してそれほどの知識もなく、訓練もろくにしてこなかったシュシュにとってはそう易々と連発できるものではなかった。尚且つ、魔法知識に乏しいが故に余計な魔力を消費してしまうだけではなく、シュシュの扱う唯一の魔法『祝福の花弁』は効果の割にはお世辞にも燃費が良いと言えた代物ではない。シュシュがこの魔法を使えるのは日に2発が限界と言ったところか。
だが、仮に魔法がもう1発放てたとしてそれは蛇目蝶に効果的だっただろうか。野生の動物は賢い。先の件でシュシュの放つ魔法が無害であることは身をもって経験済みである。
「もうっ……わたしはなんとしても捕食されないといけないんですからねっ!」
若干の苛立ちを含んだ誰に言うでもない言葉は誰が聞いても死にたがりかまたは虫に捕食されることを好む特殊な趣向を持った変人の発言にしか聞こえない。
しかしながら、発言とは裏腹にシュシュの歩みは蛇目蝶と一定の距離を保ったところでピタリと止まってしまった。それは決して臆したからではない。目標の巨大さと凶悪さが肉眼で確認できるほどの距離にいて尚、シュシュは未だに捕食される気満々だ。
だが、それは蛇目蝶の鱗粉がギリギリ届かない距離。心はそうでも身体が無意識に死を嫌がったか。
風があれば蛇目蝶もその風に乗せて鱗粉を飛ばすことができたであろうが、不気味にもこの瞬間に限って風はピタリと止んでいた。
こうなれば我慢比べとなるが、その距離を保ったままシュシュは不敵にも口元をニヤリと歪めると再度、鉄球を投擲。
「て〜〜い! ほりゃ! それっ!」
それだけではなく、地面に落ちていた小石をも狙いを定めるわけでもなく次々と蛇目蝶へ向けて投げつけ始めた。その小石の内の何個が蛇目蝶の大きな羽根に弱々しくぶつかる。シュシュの奇怪でいて嘲笑うかのような行動が蛇目蝶の怒りの琴線に触れた。
「わっ! わわわっ!!」
巨大な蝶、もとい化け物級の毒蛾が羽根を羽ばたかせ、ひらりと宙を舞ったのを見てシュシュは慌てて背中を向けると脱兎の如く走り去る。
捕食されたいと言いつつもやはり恐怖には打ち勝つことができなかったか、その姿は哀れな弱者。蛇目蝶のエサにしか見えない。
「あわわわーーひぐっ!?」
広場を円を書くように逃げ惑っていたシュシュだったが、それも数分、地面に生い茂る雑草に足を取られて無様に顔面から飛び込むようその場に潰れる。慌てて態勢を立て直し、起き上がろうと試みるが時すでに遅し。シュシュの頭上からキラキラと輝く鱗粉の雨が降り注いだ。