魔法使い
「あの、全く頭が追い付いていないんですけど、魔法使いってどういうことですか?」
すでに、人気がなくなってしまった夕暮れの図書室。年上の、それにとびっきり美人な先輩と密談をする状況にしては、最適ともいえる空間で、僕はとんでもないことを聞かされていた。
「そうねえ、どう説明したらいいかしら。一つ言えるのは、私は君が想像しているような、超常現象を起こすみたいな技を使う魔法使いではないってことね。私が使えるのはちょっとしたものなの。例えるなら、物語、かな?」
黄昏時。窓辺から差し込む夕陽が榛野先輩の顔を優しく照らしている。静けさと夕暮れの薄暗さが相まって、榛野先輩はなんだか不思議な雰囲気を纏っていた。なんだか、本当に魔女みたいだ。
「物語、ですか?」
「そう、物語。私たちは昔から物語に触れて育ってきたでしょう? 物語を知るたびに、私たちは物語を読む前の私たちとはちょっと変わるの。その変化は、現実に大きな変化をもたらすわけじゃないけれど、大きな変化を起こす端緒、くらいにはなるかもしれない。私が使う力はそういったものよ」
「上手く理解が出来ないんですけど。それじゃあ、さっきのやつは何をしたんですか」
榛野先輩の話は難しい。例え話も、わかるような、わからないような、そんな曖昧なものだ。
「あれはね、迷える子羊にちょっとした指針を与えてあげたのよ。それこそ、心躍る冒険譚を読んだ後に得られる達成感とでも言いましょうか。そういう勇気をあの子に渡したのよ」
「つまり、先輩の魔法っていうのは、人に勇気を与えるっていうことでいいんですか?」
僕のざっくりとしたまとめ方に、榛野先輩は少しばかり不満気な表情を見せつつも首肯してくれた。
「まあ、そんなとこ。私がこの力に気付いたのは小学校三年生の時。泣いている友達を助けてあげたのがきっかけなの」
きっかけは、それほど大したものではなかったらしい。泣いている友達を泣き止ませた時の、微かな違和感。また別の友達に、相談に乗ってあげた時に感じたあれ? という感覚。私って、こんなにも人を元気にすることができるんだ、と最初は不思議に思ったらしい。
「なるほど。つまりそういうことの積み重ねがあって、先輩は自分が魔法使いだと気づいたと。そして、今はその力を人のために使っている」
こうして考えてみると、榛野先輩はとってもいい人のような気がしてきた。別に元から、悪人の印象を持っていたわけではないのだが。
「そうそう、上手くまとめてくれてありがとう。この力のことを魔法って呼ぶの、なんだか恥ずかしいんだけどね。でも、昔から魔法使いには憧れてて」
少し照れながら話す榛野先輩は、なんとなく年相応の少女に見えた。
「僕はいいと思いますよ、魔法使い。先輩のイメージにピッタリですし」
そんな榛野先輩の様子に毒されてしまったからだろうか、気が付けば僕はうっかり口を滑らせてしまっていた。
「あ、ありがとう」
榛野先輩の頬の赤みが少し増した気がした。榛野先輩は、コホンと一息つくと、まだ頬は朱に染まったままだったがひどく真面目な表情になると、腰に手を当て僕の方へとさらにぐいっと近づいてきた。
「それ!」
「え、どれですか、先輩?」
「だからそれよ、その先輩っていう呼び方やめてくれないかな? 私先輩って呼ばれるのあんまり好きじゃないの。これからは、文香さんって読んでね、水上くん」
先輩という呼び方が気に食わない先輩がいるなんて思わなかった。僕はひどく混乱した状態で、なんとか言葉を絞り出した。
「あ、あ、文香、さん」
「うむ、よろしい」
えっへん、とでも言いたげに榛野先輩、もとい文香さんはにっこりと微笑んだ。どうやら、上機嫌になったらしい。そんなに、呼び方って大事なものなんだろうか。
「これからも、ちゃんと続けるんだよ? 水上くん」
柔らかな相貌を保ったまま、文香さんは僕の顔を下から覗き込むようにしてそう言った。
「はい。あの、というかこれからっていうのは、どういうことなんでしょう?」
これからも文香さんと呼べということ。文香さんの名前を呼ぶ機会が多くなるような意味を含んでいると、先ほどの文香さんの発言からは感じられた。もちろん、同じ学校の生徒だし、会う機会はあるだろうけれど、学年も離れているし、そこまで「文香さん」と呼ぶ機会はないように感じられるのだが。
「ああ、一つ言い忘れてたけど、水上くんは明日から放課後は図書室に来てね。まだ部活も決めてないでしょう? なら、水上くんは図書委員になってこれから私のサポートをすること」
文香さんの口ぶりは、まるでもうそうなることが確定しているかのようだった。まあ、別に入る予定の部活なんてものもなかったし、いい機会なのかもしれない。
「わかりました」
「え、いいの!?」
僕の返答に、なぜか文香さんは驚愕していた。自分から誘ってきておいて、なんて態度なんだこの人は。
「ですから、構いません。僕、図書委員に入っても。あ、ただ、毎日欠かさず図書室に来るっていうのは少し厳しいかもしれません」
「わ、わかった。何か、急にごめんね。でも、ありがとう」
謝るくらいなら最初から誘わなければいいのに、最初はそう思ったが、文香さんのありがとうっていう表情がとても綺麗で、まるで春に咲く花みたいだ、とか思っていると全部が気にならなくなっていた。
「それじゃあ、改めてよろしくね、水上くん」
「こちらこそよろしくお願いします、文香さん」
文香さんは、なんでもないように、こちらに手を差し出してきた。その手を僕は、少しの躊躇いとともに握った。
もちろん、僕が文香さんの急な誘いに乗ったのは、単に入る部活がなかったからというわけだけではない。こんな綺麗な女性に誘われたら、そりゃ断れないってものだろう。
とまあ、こうして僕と文香さんの物語は動き出したのだった。
まだまだ続きます。