榛野先輩という人
榛野先輩はぐいぐいと僕の方に近づいてきた。甘い香りがふわっと鼻腔をくすぐり、頭がぼうっとしてしまう。
「見たよね?」
「見ました」
素直に答えることにした。別にここで嘘をつく必要なんて、少しもなかったわけだし。
「見ちゃったかー」
あれ、どこか印象が違う? さっきまで大人っぽかったのに、今はいたずらが見つかった子どもみたいだ。
「覗き見しちゃって、すみません」
とりあえず謝っておくことにする。覗き見をしてしまったのは事実であるわけだし。
榛野先輩は、困ったように首を捻って、んー、んーと唸っている。
どうしよう……、と僕が困惑していた時だった。榛野先輩は、唸るのをやめると僕の方を見てきた。
「この際仕方ないか」
「えっ」
「私もあそこで、相談止めて君を追い出すわけにもいかなかったしねー」
開き直ったように、榛野先輩は一人でうんうんと頷いている。
「それに、そろそろ仲間が欲しいって思ってたころだしね、ちょうどいいや。君、クラスと名前は?」
聞いている内容や、その口調のどこにも答えることを強制するような色合いはなかったけれど、榛野先輩の言葉にはなぜか有無を言わさぬ力があった。
「一年五組の水上透です」
「なるほど、水上くんっていうのか。あ、そういえば私の自己紹介がまだだったね。三年四組の榛野文香って言います。図書委員長をやってます」
知っています、とは言えなかった。事態が進むのが早すぎて、僕はすっかり榛野先輩のペースに飲まれていた。
それにしても、榛野先輩と僕の距離がさっきからやたらと近い。甘い匂いが漂ってきて、さっきからくらくらしっぱなしだ。少し目線を下におろすと、榛野先輩の綺麗な顔がはっきりと見える。
胸の鼓動がどんどん激しくなる。僕はこの状況から、少しでも逃れるために、自分のペースを少しでも取り戻したかった。
「そういえば、ここで声を出して話しても大丈夫なんですか?」
「え、なんで?」
榛野先輩はきょとんと、首をかしげる。本当にこの人は図書委員長なのだろうか……?
「だって図書室じゃないですか。ここって」
図書室という言葉に、榛野先輩は得心がいったように頷いた。
「そういうことね。大丈夫大丈夫。ここあんまり人こないし、それに私図書委員長だから」
莞爾とした表情のまま、榛野先輩は何でもないことの様に言う。
その姿を見ていると、なんだか目の前にいるこの人がとても適当な人に思えてきた。
「あー、君。今私のこと、てきとーな女だって思ったでしょ」
「いや、思ってないですって」
「嘘。顔に出てたよ」
え、思わず自分の顔を触って確かめてしまう。僕ってそんなにわかりやすい顔をしているのだろうか……。
すると、榛野先輩はなぜか声をあげて笑い出した。
一瞬何が起きたのかわからずに困惑していると。
「別に大丈夫よ、水上くん。君の顔に何かついてるってわけじゃないんだから」
榛野先輩は、お腹を手で押さえ笑いを堪えるようにそう告げた。
僕は慌てて自分の顔から手を放した。今の僕って、そんなに笑われるくらいおかしな姿だったのかなと考えだす。
自分の顔に熱が集まっていくのを感じたくらいに、ようやく榛野先輩は笑い止んだ。
「君、おもしろい子ね。気に入ったわ」
「僕ってそんなにおもしろかったですか?」
思わずそんなことが、口から零れていた。
榛野先輩は、僕の反応を見て今度はクスッと微笑みを落とした。
「そうね。そういうところがおもしろいわね」
榛野先輩に対しての初印象は、掴みどころがなくて敵わない先輩といった感じだ。
ただ、こうも綺麗な顔で笑われると心臓に悪い。必死に抑えようとしていた鼓動は、すでに元のハイペースを取り戻している。
そんな僕の動揺を気にする風でもなく、榛野先輩は相も変わらず微笑んでいる。
「ね、水上くん。この後、時間ある? 私、もうちょっと君とお話ししてみたくなっちゃった。ほら、さっきの覗き見のこととか色々と」
そう言われると、僕はもう頷くしかなかった。
「うん、いい返事だ。それじゃあ、わかりやすいように順を追って話そうか。私ね、魔法使いなの」
突然何を言い出すんだこの人は、と思った。ともあれ、これが榛野文香という人なのだ。