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第一章 2(後)

 この魔道書の「五一ページから七〇ページ」の版は僕が担当した。

 いかなる印刷物も誤植は注意すべきものだが、魔道書を印刷する場合、さらに注意が必要だ。


 次に挙げる事象のいずれかが起きるからだ。


 ひとつは誤植のせいで、意味のなさない単語を印字してしまうとき。これは魔法発動時にその言葉が読み上げの対象から外されてしまい、時に魔法が効力を発揮しないことがある。

 もうひとつは、他の意味の単語になったりしたとき。この場合、まったく別の魔法を発動してしまう。


 いずれにしても、魔道書を購入した人に迷惑を被ることになる。


 これらの過ちを犯し、見過ごせば、魔道書を発行するこの印刷所の信用はガタ落ちだ。また誤植した魔道書のせいで事故が起きた場合、罪に問われることもある。

 それだけ魔道書の印刷にはリスクと責任が伴う。僕はそんな失敗を「また」やってしまった。

 それが発覚するたび、彼女は怒髪天をついて叱責し、僕が決まってしおしおとする。


 だが、今日に限って言えば、そうはならなかった。


 彼女は口元をゆるめ、いつもらしくない柔らかい顔つきをつくる。

「まぁ、いいわ」

 キルシェは誤植があった版を手に取り、右手に持っていた金属活字を差し込む。

「え、怒らないの?」

「怒って欲しいんだ?」

 小さな鼻から上半分が怒り顔になったように、目を細める。

「いや、とんでもない」

「しっかりしてね、お兄ちゃん」

「あ、う、うん」

 朝食のとき、僕はキルシェのお兄ちゃんになってもいいと言ったけれど、その「お兄ちゃん」をいま言われると、責任の重さを象徴する言葉のように感じられて、僕は少しだけ胸がつかえた。


 まぁ、激しく怒られなかっただけいいか。


 僕は反省して、五一ページと五二ページを刷り直した。

 昼飯も食べずに、午後六時を迎える。魔道書がようやく出来上がった。


 キルシェはすでに今日のノルマを終えていた。仕事の遅れを取っていた僕の手を貸してくれたが、残り一〇〇枚の時点で彼女は仕事場を離れた。


 僕はタオルケットで汗を拭いながら、印刷所から出ると、リビングに灯りがついていた。


 入ると、キルシェがおしゃれな格好をしていた。フリルのついたよそ行きの服装だった。こんな服装は滅多に見られない、彼女が通常着る服は、印刷所で着る作業着だったから。


 そして、果物と砂糖の香りがした。

「ご苦労様、さぁ食べて食べて」

 キルシェが僕の背中にまわって椅子に座るよう促され、僕は一息つく。


 テーブルの上にクッキーが並べられた大皿があった。

 クッキーには、賽の目にカットされた果物が入っていて、昨日か今日に作られたものだとわかる。


 今日は仕事で忙しかった。キルシェはいつの間に作ったのだろうか。


 まぁでも詮索するより、キルシェに感謝して食べよう。

「いただきます」

 つまんで口の中に入れると、口の中に甘みが広がり、その甘みとともにリンゴとイチゴの香りが抜けた。

「おいしい?」

 彼女がタイプする。

「凄くおいしい」


 僕はそのとき、ふと今朝のことを思い出した。料理に使う薪ストーブが燃えていたこと。そうか、キルシェは今日、日が登る早く前に起きて、クッキーを作ってくれたんだ。


「点数にしたら何点かな?」

「点数? 仕事じゃないんだから、点数なんてつけるもんじゃないよ」

「そっか、そうだね」

 果物のように甘い笑顔を、花のように開かせるキルシェ。


「ところで棟一郎、手を出してくれる?」

「え、何?」

「いいからいいから」

 僕は右手を出す。キルシェは後ろ手に何かを持っていた。そして、矢庭に僕に近寄って、何かを手のひらに押しつけた。

 それを退けた後、手のひらには、キュリイェ語で「よくできました」とスタンプされていた。


「一年間ありがとう、これは私の棟一郎への評価だよ」

「ははは」


 いろいろキルシェには迷惑をかけた。仕事の失敗も、手違いも、みんな彼女がカバーしてくれた。そんな僕に似合わない「よくできました」。


「これからもよろしくね、棟一郎」

「うん」


 そして、「僕からもよろしく」と言おうとして、席を立ち上がると、迂闊にもキルシェの脚をひっかけてしまい、キルシェが躓いて、顔が床にぶつかる。

「ごめん、大丈夫? キルシェ」


 僕はキルシェに手を差し伸べる。

 キルシェがゆっくりと立ち上がる。彼女の顔を覗くと、僕は笑いがこみ上げてきて、我慢できず吹き出してしまった。

 何が起こったのかわからない顔をするキルシェ。

 僕は「鏡を見ればわかるよ」と言った。


 鏡、鏡と、どこかに自分の顔を見ることができるものはないかと、まごつく彼女。

 外が暗くなって自分の顔をよく見ることができる窓ガラスを、キルシェは見にいく。

 そして、彼女は気づいたのだろう。

 自分のほっぺたに「よくできました」とスタンプされていることに。


 彼女は肺にある空気をすべて消費するように、呼気だけ吐き出す程度で、声は出さずに笑い出した。


 きっと、神様がくれた「二人への評価」はこれなんだろう。

 次の年も二人で頑張り、ときに笑いながら、過ごしたいと思った。

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