第四章 7(後)
僕はよじ登ろうとし、フェンスの上部に両手がかかったときだった。
「ダン!」
生暖かい風が背中に吹きつけ、にじんでいた冷えた汗が引く。
後ろを見る、斜に傾いた視界に姉貴が屋上に立っていた。
息を切らせ、歪んだ視界にも関わらず、僕をまっすぐ見据えている。
「何を、しているんだ!」
「見りゃわかるでしょ、死のうとしているんだよ」
僕は姉貴の声を無視して、さらにフェンスを登り詰めようとする。
「思い留まれ」
「嫌だ」
僕に自殺を止める理由なんてひとつもない。
僕が逃げることのできる唯一の手段がこれしかないのだ。
「ダン、私と出会った頃のことを覚えているか?」
あのクリスマスイヴの雪の日。僕は鮮明に覚えている。
「私が自ら命を絶とうとしていたとき、貴様は言ったじゃないか」
あのとき僕が言った言葉。なんだったろうか。その言葉だけが曇りガラス越しに見ているような印象があって、はっきりとわからない。
「その言葉を、今、貴様に返してやろう!」
あのとき、僕は言った。六才らしからぬ言葉を、覚えも覚束ない格好だけの言葉で、姉貴に言った。
「何を贅沢なこと言っているんだ! この馬鹿野郎!」
その言葉が耳を貫いた。
それと同時に、僕は胸の奥から自分の情けなさがにじみ出てきていた。
「でも……」
僕は声が震えていた。
「僕は自ら命を絶ってはならない理由が見つからないんだ」
そう、ここまで来てしまった以上、止めることはできない。
「今の僕は、死ぬしかないとしか思えないようになってるんだ」
だから。
「そんな簡単なこと……。こうなる前にもっと踏み込んで私に相談してくれれば……」
「姉貴……じゃあどう僕を止めてくれるんだよ」
「貴様が死んだら、父さんと母さんはどう思う!」
「!?」
自分の痛みしか考えられていなかったことに僕は愕然とする。
この屋上から飛び降りても、たぶん一瞬痛いだけで、僕は耐えられそうに思った。
けれど、もしかしたらこのことで、父と母はその心にとても耐えられない傷を負うかもしれない。
「そして、私の目の前で死んでみるがいい」
「……」
「私だって心はそんなに強くない。ここでダンが死ぬところを、大切な人が死ぬところを目のあたりにしたら、私は生涯心に傷を負う」
「姉貴……」
「そして、貴様を止められなかったと生涯悔やみ続ける。独りよがりかもしれないが、全部お前が与えるものだ」
「姉貴…………」
僕はフェンスを握る手に力が入らなくなっていた。
そして、フェンスから降りようと右手の小指を離した瞬間、完全に全ての指から力が抜け、屋上側の地面に身体が落ちた。
そして、姉貴が駆けつけてくる音が聞こえてくる。
屋上の地面で姉貴は僕の身体を受け止めきれず、僕は姉貴と身体を折り重ねた。
「はぁ、間に合ったな」
「あ、あね、姉貴……」
姉貴の顔をおそるおそる見る。
とてつもなく鋭い目で僕を凝視していた。
「殴らないでくれ」
多分、正義感の強い姉貴は、こういうときになれば、僕を殴るのは必至だと思った。
「殴らないさ、でもな」
姉貴は姿勢を立て直し、僕を心底から心配をしていたかのように、抱きしめた。
そして、暖かくて熱いものが姉貴の瞳から零れてくる。
僕は今、姉貴が泣くところをはじめて見た。
「私を泣かせやがって、馬鹿」
「ごめん、姉貴」
もう僕も泣いていいよな。
僕は息が苦しくなって、嗚咽を漏らしながら、姉貴と一緒に泣いた。
「なあ、姉貴」
「なんだ?」
「昔のことを覚えているか?」
今度は僕からの質問。
「僕と姉貴は秘密を共有しあう仲だったよね」
「そうだとも」
「ごめん、物凄く勝手だけど」
「言ってみろ」
「今日のこと、母さんと父さんには言わないで欲しい」
姉貴は濡れた顔で、無言を決めたまま、一度だけこくりと頷いた。




