第四章 6(後)
これだけ気分が今以上に高揚していたのは、かつてなかった。僕は自分が自分でなくなるくらいの気持ちで、タイピングの神と交信しあっている気分だった。
果たして僕は神を守護につけたのか。僕は課題文の文字を視覚で認知するのとほぼ同時に、脊髄反射で指が動いていた。
異常な集中力が続く。もしかして、これは自己ベスト更新、いや、WTCのレコードを更新するか。むしろ、タイピング史上、最高の記録を打ち出すかもしれない。
六〇〇〇ワードの課題文。僕はすでに一七〇〇ワードを超えた。これだけ打てる人は誰もいないのではないか。僕は実力以上の力を手に入れていた。
なんでこんなに力が湧いてきているのか。
僕は不思議でならなかった。いくら力を注いでも、集中力もそぎ落とされない、疲労ひとつ感じることがない。僕の身体が熱くなる。額から汗がにじみに出て、僕の瞳を濡らす。しかし、僕は瞬きすらあまりしないで、タイピングに没頭した。
異常なタイピングスピード。異常な集中力によるタイピングの正確性。僕は自分が完全な人間になったと思った。
そして、それがなぜなのか理解しようとすら思わなかった。そんなことを考える暇があったら、タイピングのほうに時間を割くべきであり、事実、僕は力のすべてをキーボードに注いだ。
残り一分の合図が来た。僕は見直す必要すら感じない。僕が正確に打っていることはわかりきっていることだったから。
一〇秒前からカウントダウンが始まる。
一秒ごとに三ワード以上は打っていることを僕は知る。いや、それどころかカウントダウンが遅かった。まるでスローモーションがかかったかのように。僕の体内感覚が錯覚を起こしているのかもしれない。集中することで周りの時間が遅くなるということが起きていたのかもしれない。
「やめ!」
僕はキーボードを打つ手を止めた。
「それでは審査に入ります」
二回戦は何度も突破しているので、これは序の口だと思っていた。けど、今出した力が今まで以上に本気さがあった。脳のリミッターが解除されて、なんというか精神的に自由過ぎる気持ちだった。
審査は二十分で終わり、結果が発表される。
ここで通過するのは、上位五名だ。
「一位から発表します」
もうわかりきっていた。
「素晴らしい結果が出ました。エントリーナンバー368、ダン・カベイ。この大会の最高記録、二〇五七ワードを叩き出しました!」
拍手が喝采される。
「続いて、二位……」
五位までの一人一人がレコード発表されていく。
「五位、クリスティーナ・カベイ。入力ワード数は……」
姉貴がぎりぎりで入っていた。
「以上、五名は三回戦準々決勝へと駒を進めることとなりました。おめでとうございます。この五人にもう一度盛大なる拍手を……」
「ちょっと待て!」
選手の一人である人間が大声をあげた。
「この中に不正をしている人間がいる!」
そう言った男の顔に僕は見覚えがあった。朝方、僕に因縁をふっかけてきたダニエルだ。
「どういうことですか?」
「WTCの条項三七条をご存じだろうな? 主催者さん」
「三七条というと、ドーピングの禁止規約……」
「この上位者の中にドーピングをした者がいる」
いったい誰だろうか。不届きな薬物使用者は。僕はチート行為をする奴をもっとも嫌う。そして、そういう奴がいたらぶん殴ってやりたいくらいだ。
だが。
「俺が言わずもわかるだろう。ダン・カベイ」
「は?」
言っている意味がわからなかった。きっと妬みに違いない。
「名誉毀損で訴えるぞ」
当然、僕はそうダニエルに告げた。
「本当のことだろ、その腕にある注射の跡はなんだ?」
僕は半袖の下に見える右腕がさっきから痛みを訴えていたのを気にしていた。
僕はおそるおそる右腕を見る。血が固まって紫色のかさぶたになった点のようなものがあった。
「薬物を注射したんだろ? ダン・カベイ」
僕は背中に汗が流れた。それは、冷えてなおかつねっとりとした脂汗だった。
そのとき、僕は思った。
はめられた。
僕はハンカチで口を覆われて意識を失った。きっとクロロホルムか何かをかがされたんだ。そして、トイレの個室に押し込まれて、誰かが薬物を注射した。いや、わかりきっている、目の前の人間ダニエルがそれをやったんだ。
僕は反論をしようと口を開いた。
「誤解だ、僕は眠らされて薬物を注射されたんだ!」
「言い訳にしては現実味がないな」
ダニエルがそう言い返す。
二人の係員が近づいてくる。
「ちょっと、血液検査をさせてもらいますよ」
「誤解だ、僕は何もしていない」
「話は結果が出てから聞きます」
僕はバカだった。
目が覚めたとき、腕の痛みと高揚した気分に疑問さえ持っていればこんなことにはならなかったのに。僕にもう少し知恵があれば、こんなことには……。
その後、僕の体内から薬物反応が出た。
僕の言い分は一切を聞いてもらえず、弁明をする会見すら開かせてもらえなかった。
僕はWTCならびにすべてのタイピング大会の出場を、永久停止させられた。
タイピングは速度と正確さへの直向きささえあればできる競技じゃなかったんだ。
僕は知恵で負けたんだ。




