第四章 5(後)
WTCは数十カ国にまたがって行なわれている。
アメリカでは十カ所の一回戦予選会場があり、僕たちは指定された最寄りの会場へと向かうことになる。
会場に入り、僕はロビーのソファでくつろいでいた。
タブレットPCを使って、タイピングの予行練習をぎりぎりまでやるのが僕のポリシーである。
そのとき、僕の正面から人影が差し込んでくる。
「あんまり根気詰めすぎると出るものも出なくなるぞ」
姉貴が紙コップに入ったコーヒーを二つ持ってきた。
コーヒーは苦手だって言ってるんだけど。
「悪いな、会場に自販機がないから、近くを探したが、コーヒーしかなかったんだ。その代わり砂糖は入っている」
だが僕は手を上げて、「ノーサンキューだ」と答える。
「姉貴に足を使わせてなんだけど、ドーピングにひっかかりはしないか僕は心配だからね」
「ドーピングとは何か?」
そうか、姉貴はその概念を知らないか。
「薬を使って、身体能力を上げることで、ズルをすることだよ」
「貴様が前に言っていた、チート行為というやつか」
「その通り」
そして、コーヒーにはカフェインが入っている。ただ、カフェインはオリンピックにおいても、ドーピングの禁止薬物には含まれていない。もちろんWTCにおいても。だが、念のため僕は飲まないでおく。あくまで念のため。
その旨を僕は姉貴に伝える。
「そうか、悪いことをしたな」
「ううん、僕が心配性過ぎるのかもね」
そのとき、ベルが鳴り響いた。
「姉貴の時間だ」
多くの人数がひしめく会場で、一回戦は三回に分けて行なわれる。
一回目は姉貴が競技に望み、僕は三回目だ。
それぞれの上位十名、合計三十名が決まり、午後の部で二回戦が行なわれる。
「頑張れよ、姉貴」
「頑張るのは貴様だ、ダン」
そう言って、姉貴は開かれた扉から会場へと続く通路を通っていく。
僕はソファーでくつろいでいる。タブレットPCを打ちまくった。そのとき、また人影が僕の身体がまた覆った。
青白い顔で僕と同い年くらいの男がタブレットPCを覗いてくる。
「お前か、ダン・カベイは」
「そうだけど」
僕もこの世界では有名人だから、声を何度かかけられる。
「その十本指でお前はいくら泡銭を稼いだ?」
「人聞きが悪いな、僕は人並みの暮らしをしてるよ」
「偉そうな口を聞くな、今回のWTC、俺が新星となって、お前をこの世界から蹴落としてやる」
「何を言うんだ、僕は負けないよ」
「慢心するな、このWTC、お前にとってただの一大会だと思ってくれるな。お前は二度と立ち上がれなくなる」
「僕の指を切り落とすとでも?」
「そんなことはしない。けど、それに近いことが起こるかもしれないな」
そう言って、男はここから離れようとする。
「俺はダニエルだ。二回目のピリオドで俺は十名に残る」
「運が良かったね、僕は三回目のピリオドだよ」
「だから、慢心するな」
そう言って、スニーカーをリノリウムの床に擦らした後、ダニエルはこの場から去っていった。
後味が悪いな、僕に精神的にふっかけてきたつもりだろうが、そんな手に乗るか。
僕はがむしゃらにタブレットPCを打ちまくった。




