第四章 4(前)
高校の受験を迎えようとしていた冬の日も、僕はタイピングに明け暮れていた。なんか、一日でも休むと腕がなまってしまいそうで怖いから。
「ダン、入るぞ」
姉貴の声が聞こえてくる。
「どうぞ」
僕の部屋に入ってくると、姉貴はトレイを持って、湯気の立つ二つのカップを持ってくる。
「勉強に根気詰めるのはいいが、少しこれでも飲んで……と思ったら勉強してないのか」
「もうすぐ大会が控えているからね」
前回はWTCの一般部門で三位に終わった。
今度こそ一位を取るんだって意気込みで、僕は頑張っていたのだ。受験勉強ではなくタイピングを。
「お前は速度にこだわるのか?」
正しくは正確さにもこだわるけど、おおむね間違っていない。
「そうだよ」
そう答えると姉貴はニヒルな笑みを浮かべる。
「早い男は嫌われるぞ」
「何の話だよ!」
しかし、姉貴がそんな話を振ってくるのも珍しい。
「姉貴こそ、頑張ってるか?」
「お前に追いつくにはまだまだだな。お前は常に全力疾走だ」
「言ってくれるね」
「言っておくが褒めてないぞ。燃え尽きた後のことが心配だ」
「そう、心配してくれてありがとう。姉貴」
僕は机に座りながら手をあげる。
それから、あげた手を戻し、パソコンのキーボードに再び向かい合った。
そのパソコンの横に、姉貴が飲み物を置いてくる。
「コーヒーか、僕は苦手なんだよな」
「安心しろ、私も苦手だ」
「解決にもならない言葉だね」
「安心しろ、解決策はある」
すると、姉貴は細長い紙袋の封を開けて、中から白いさらさらとした砂糖をコーヒーの中に投入した。
これで僕もコーヒーが飲めるようになる。実によい解決策だ。
砂糖を半分入れたコーヒーを飲んでみる。でもやはり苦い。そして何よりこのどす黒い色って苦手なんだよなぁ。なんか泥水飲んでいるようで。だけど、目が覚めた。
「コーヒーというものは実に黒くて苦いな、私も嫌いだ。私もコーヒーのように黒く染まる日になればどうなることか」
「え、何のこと?」
「そうか、お前はもう忘れてしまったんだな」
ため息をついて、姉貴は僕の部屋から出ようと立ち上がり、ドアノブを握る。
「黒魔術師だったかな、姉貴の身体に悪いものが潜んでることはまだ覚えているよ」
「ダン……」
「僕が忘れるわけないじゃないか」
「そうか」
再びため息をつく姉貴、でもそれはさっきのため息のニュアンスとは違い、安心の嘆息であると思う。
「僕に確認を取りたかったんでしょ? この話題にひっかける瑣末な話題が出てこないかいつもいつも待ちかまえてたほうなんだよ、僕も」
「そうか」
「姉貴は異世界人で、魔法使いで、悪いものがついている。そのことは忘れちゃいない」
遠い昔に言われたことだから、僕が「姉貴がジョークで言ったんじゃないか」と思っていたと。そう姉貴はとらえていたのかもしれない。けど、僕は信じていた。
姉貴は嘘をついたことはないから。
「僕は約束したからな。姉貴がどうにかなったら僕がなんとかするって」「もしそうなったら、私を殺してくれるか? 無用な罪を負わせてしまって申し訳ないお願いだが」
「そんなことしないさ、でも姉貴が嘘をつかなかったように、僕も約束を守るから」
そう。
「姉貴がどうにかなったら、僕がなんとかするって」
「じゃあ、どうするつもりなのだ、貴様は?」
「それがまだ思いついていないんだよな」
「そうか、嘘つきだな」
「今のところはね、でも、いつか絵空事を本当にしてみせる。だから姉貴は安心してろって」
そこで「貴様は無責任だな」と言ったほうが姉貴らしかったけど。姉貴はその言葉と僕の強気を受け止めたと見て、何も言わなかった。
「姉貴も早く僕のタイプスピードに追いついてくれ」
「そうそう簡単に言ってくれるな、私も精一杯なんだ」
「魔法を使えばスピードアップするんじゃないか?」
「それは卑怯だな、それに第一だ」
「第一?」
「それは楽しくない」
そうだな、チートしてクリアしたゲームなんて面白味も何もないのと同じように。
それに僕は身近な仲間が欲しかったんじゃないのか?
ともにタイピングの神域に踏み込む楽しさを分かち合う仲間を。




