第一章 1(後)
僕はキッチンナイフを持ち、長いバゲットのパンを、横にスーッとまっすぐ切り込みを入れる。
キッチンの奥に薪ストーブがある。朝早くからキルシェが火をつけてくれたのか。この部屋の中がとても暖かい。調理に使う火の用意ができたんなら、ついでに市場で材料を買ってくれればよかったのにな。
香りのよい植物油でフライパンを熱し、チーズとピクルスを投下する。とろとろに溶けた頃合いを見て、パンの切り込みにさっと入れた。
それからバゲットパンを六等分してできあがり。作り方も非常に簡単である。
二つの大きな木皿に載せ、大急ぎでリビングのテーブルまで運ぶ。
ジト目のキルシェがナイフとフォークのおしりを、テーブルにコツコツ叩きつける。
「ごめん」
「早くしなさい」と言わんばかりに、キルシェはタイプライターを使わずに顎を引いて目配せした。
準備が整い、僕はテーブルに座り、「いただきます」と言う。キルシェも手を合わせて目をつぶり、軽く祈りを捧げた。そしてパンを両手で行儀良く取り、小さな口でもくもくとゆっくり食べる。
「おいしい?」
キルシェは視線をこちらに向ける。
「まずい?」
ふるふると横に首を横に振る。
「ごめんね、間に合わせの料理で」
すると、キルシェは下に置いてあったタイプライターを上に置き、またパチパチとキーの音を立てる。
「棟一郎の作るご飯はいつもおいしいよ」
キルシェの暖かい心が胸の中にじんわりと染み渡る。
「ありがとう」
「だからご飯の時間が遅れたら、ご飯がおいしい分だけ、なおさら憎たらしく思えるのよね」
その厳しいお言葉で、僕は苦笑いするしかなかった。褒められる分、こうやって怒られて複雑な気分である。
「そういえば、僕がここに来てから、一年になるね」
口にしてたパンをいったん木皿に置き、キルシェはまたタイプをする。
「棟一郎、何歳になるの?」
「もう十七歳になってるよ」
「私ね、お兄ちゃんが欲しかったんだけど……」
「僕でよければ、お兄ちゃんと思ってくれてもいよ」
「棟一郎は私にとって可愛い弟みたいなものかな」
物凄く傷ついたんですけど。
「そういえばキルシェは?」
「私はもうすぐ十四歳を迎えるわ」
なんか、僕とキルシェの年齢を交換したほうがいいんじゃないか、って思うぐらい僕ら二人は風格が真逆。
僕はキルシェに頼りっぱなしで、僕にとってキルシェは保護者だ。悔しいけどその通りなのだ、彼女がいなければ僕は右も左もわからないままのたれ死んでいただろう。キルシェには心底感謝しているし、感謝しきれない。
「じゃあ誕生日祝いしないとね」
僕はその場で思いつき、提案をした。
「誕生日……」
キルシェは瞳を上方へ動かした。何か考えるときの目の仕草として見慣れている。彼女は果たして何を考えているのだろうか?
「そうだ、クリスマスも近いしそれにあわせてお祝いしよう」
「棟一郎。クリスマスって何?」
「え? あ……、そうか。ここではその風習がないのか」
そうして、キルシェはまた目を上へ向ける。
「どうしたの? キルシェ」
「ううん、なんでもないわ」
そう答えた直後。
「キシシシシッ」
奇妙な笑い声とともに、僕が右手の小指にはめた指輪の緑石がおぼろげに輝く。キルシェも同じ指輪を小指にし、同じ笑い声がノイズのかかったトランシーバーのように同時に聞こえる。
「わしの誕生日祝いはしてくれぬかな?」
しゃがれた老婆の声で、小悪魔のような口調で喋る。
この声の主は、写本の精霊獣、ルカニエルだ。
ルカニエルに実体はない。つまり身体は霊体に近く、直接見ることはできない。唯一この指輪を介してのみ、僕たちと会話できる。
「ルカニエルは何歳になったの?」
キルシェがタイプライターで語りかける。
「四〇四本の黒い花を贈ってくれれば、わしは心底満足じゃ」
この居間が黒い花で埋まってしまうぞ。
でもつまりは、四〇四歳ということか。
「黒い花なんて不吉じゃないか、ルカニエル」
「何を言うか、黒はインクの黒、お前たちが読んでいる本のインクの黒じゃ」
「そうだね、写本の神様……いや、写本の精霊獣のルカニエルがいるからキルシェの仕事が成り立ってるんだよね」
「仕事」という言葉に反応し、キルシェは窓の外を見る。時計塔が九時を指そうとしていた。
「仕事の準備にかかりましょう」
そうして、僕らはパンを大急ぎで食べ、居間と同じ一階の仕事場へと直行した。




