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第二章 5(前)

 クリスとの話を終えて、夕刻の直前に家に戻ると、キルシェはまだ戻っていなかった。


 思えば一年間も棲み慣れた場所だ、ここに僕がいるのが当たり前のようになっていた場所。


 僕は羽ペンとインク、それから紙を用意し、自室に持って行こうとしたとき、玄関の扉が閉まる音がして、背筋が凍った。

 この足音はキルシェ、まだ準備ができる前に彼女が帰ってきてしまった。


 タイプする音が静かに響く。

「棟一郎? 帰ってきてるよね? 返事して」

 僕は、二階から「ごめーん」と僕は大声でキルシェに呼びかける。


 それから、キルシェが僕の部屋へと駆けてきた。


「棟一郎、情報は集まった?」

「えっと……」


 どうやって言葉を濁そうかと考えていた。でもそれ以前僕は言葉を濁さなくてはならないことに罪悪感を感じる。


「特になかった」

「うん?」


 キルシェは僕の胸にあたりまで歩いてきて、僕の両手を握る。それから、僕の口元まで小さな鼻を近づける。


「コーヒーの匂いはするね」

「ああ、ちゃんとコーヒーハウスには行ってきたぞ。五〇〇ドーラはネコババなんてしていない」

「そう、それならいいんだけど。私もあちこち回ってきたんだけど、情報がそう集まらなくて、悔しいわぁ」


 僕から柔らかい手を離し、キルシェは僕の顔から視線をずらす。

 彼女の視線が向かった先は、机の上にある紙とインクと羽ペン。


「何か書こうとしてた?」

「あ、ああ」

「何を? 正直に言って」


 心が質量を持ったかのように、僕の胸が重くなる。


 僕はとっさに机に向かい、即興でインクのついた羽ペンで紙に書いた。


 ――キルシェ、いつもありがとう。

 ――十四歳のお誕生日おめでとう。


 それを見るなり、キルシェは「ああ、昨日の話……」とタイプしながら、少し微笑む。


「言葉じゃ僕はどうにも表現できそうにないから、こうやって手紙で書こうと思って……」

「ありがとう、その気持ち嬉しく受け取るわ」


 そうしてキルシェは紙を手に取り、「大切に保管しておくわ、宝物として一生取っておくから」と言いながら、僕の部屋を出ようとする際、僕のほうを振り返る。


「棟一郎」

「何?」


 笑みが消えてキルシェの真剣な顔が露わになっていた。


「どこへも行かないよね?」


 僕は心臓が喉から出そうになる。悟られないようにごくりと唾を飲んで、平静さを装うように姿勢を整える。


「僕の家はここだから」


 そう言うと彼女は再び笑顔を取り戻す。


「ところで、買い物行ってきてくれる? 今日は棟一郎の大好きなオムレツ作ってあげるから」

 そういえば夜に市場が開いていたか、最近あまり利用してないけど。

「嬉しいね。卵だけ買ってくればいい? 任せておいて」


 キルシェからお金をもらい、玄関へ行って、ひんやりと冷たいドアノブを握った。


「さよなら……。キルシェ」


 彼女に聞こえないように呟いて、玄関を開けると、冷え切った空気が流れ込んできた。

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