第二章 4(前)
「貴様が持っている彼女をもらおう」
「お願いだ、待って」
「往生際が悪いぞ」
そして相手は呪文の言葉をつぶやき始めた。
――万物には創造主が与えし自由のみ。
――神も怖れし放縦さえも従属せる手鎖。
この呪文は人を隷属させるために使う呪文。
――我に隷属せよ、いまその名を言わん。
次の言った名前の者がこいつの奴隷となってしまう。
キルシェの名前を言われる。やめてくれ。
僕は目をぎゅっとつぶった。
――写本の精霊獣ルカニエル!
「え?」
僕はその名前を聞いて、力が抜ける。
「ふぉ!?」
ルカニエルが指輪の中で叫び声をあげる。
そして、相手の小指に光源が生じ、緑色の光に満ちた。
まぶしい緑が次第に淡い緑に変わり、そこに指輪ができる。
「貴様が大切している彼女の力。今、確かにいただいた」
もしかして、この人が言っていた「女」とか「彼女」って、キルシェのことじゃなかったの?
というか。
「ルカニエルって確か、女だったっけ?」
「失礼な! わしはピッチピチの四〇四歳じゃぞ!」
僕にがらがらの汚い罵声を浴びせる。そのガラガラ声だったから、いつもルカニエルが男か女かなんて気にすることがなかった。
「私もちょうど欲しかったのだよ、タイプライターで呪文を使うすべを」
「そのために、僕に勝負を挑みに?」
「その通りだ」
とりあえず、指輪から声が聞こえてくるから、僕がルカニエルを取り上げられたわけではない。ルカニエルを共有する人間が二人(僕とキルシェ)から三人に増えただけだ。
「悪用しないよね?」
「それは犯罪者がやることだ。もし私が魔法を悪用……」
そこでこの人は言葉を詰まらせる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。悪用していたとしたら、私がすでに犯罪者として捕まっているであろう?」
確かにそうだ。この人は呪文の詠唱ができるから、手にした唯一のものといえばタイプライターと同じ速度で詠唱できる力だけだ。
「ねえ」
「なんだ?」
「いつか今度でいいんだけど。僕とまた勝負してくれない?」
僕は負けたことが悔しかった。だから、僕はまたこの人とタイピングの勝負をしたいと思った。
「そうか、貴様と私は敵同士だな」
「聞こえが悪いなぁ、ライバルと言って欲しいよ」
「そうか、ライバルか」
僕は両膝をつけていた床から、また椅子に座り直す。
「そういえば、名前を伺ってなかったね。君の名前はなんていうの?」
するとこの人は外套を脱ぎ、前髪が見えるくらいに帽子を傾けた。
「クリスティーナだ」
労働者がよく着るようなワイシャツ。肩から腰にかけて延びるサスペンダーつきのスカート。
そしてクリスティーナという名前。
まさか女性だったとは。
「さぁ、ここを出よう。私は本来この店に入れる身分ではないからな」
女性の入店をお断りしているコーヒーハウスに、場違いな彼女がいることをちらほらと気づき始めている人が数人。
親父さんはカウンターで客の相手をするのに必死だから、まだこちらに気づいていない。
とっとと退散したほうがいいな、親父さんが気づいたら口うるさそうだし。僕は彼女と一緒にコーヒーハウスを出た。




