異世界に行った俺は乳母になった
学校帰り、急に足元の感触がなくなって気がついたら魔法陣の中にいた。
「我々は第一子である姫のために、どこからでもいい、最高の乳母となるものを呼べと命じたのだ」
俺男なんだけど。DKなんすけど。弟も妹もいねえし、明らかに人選ミスの気配がするぜ。と思ってたら一番偉そうな人の横にいた、フードを深く被ってる魔法使い風の人間が言った。
「あとはわらわにお任せを」
こっちに来いと手招きされ、どこかの部屋に案内される。二人っきりなのを確認して、魔法使いはフードを取った。
「あぁん、もうやんなっちゃう。王様だか何だか知らないけど、見得だけは立派なんだから」
さっきまでは裏声使ってたのか!? まさかの色っぽい声の色っぽいねーちゃんがそこにいた。
「単刀直入に言うね? アンタは失敗。いやーホントはあたしのお祖母ちゃんが今日やるはずだったんだけど、昨日病気でぽっくり逝っちゃってね……。あ、これ聞いたからにはアンタも共犯ね。あと戻れる方法はありません。不都合な者認定されて処刑されるか、異世界で放り出されたくなかったら、せいぜいしっかり乳母やることね」
まあ、こう言われたら従うしかないよな。
やがて案内されたのは天蓋付きのベッドに横たわる、小さな小さな赤ん坊。この触ったら壊れそうなののを面倒を俺が見るのかよ。
「……という訳で、朝の衣装係、食事係、また入浴係、有事の際には医師などが待機しておりますので、御用の時はお呼びください」
「は、はい」
何だよ、別に俺一人で全部するわけじゃねーじゃん。ホッとした次の瞬間、赤ん坊が火のついたように泣き出したではないか。
「ハルト様、ベアトリーチェ様をお願い致します」
「え!? と、とりあえず、ミルクを」
素早く哺乳瓶のようなものが手渡される。
「あれ、あげてくれるんじゃ……」
「恐れながら、それは乳母の役目かと」
「ソウデスヨネー」
恐る恐る抱き起こしてミルクを与えようとするが、いやいやして飲みやがらない。ミルクじゃないとすると……オシッコか!? ウンチなのか!? とっさに下股に手をやるともっこりいい感触が。
俺は乳母……いや保育士なんだ! と言い聞かせてご開帳の準備。そういやこの子一国の王女なんだよな。あ、俺女の裸とか見るの初めてだわ。と慣れない手つきで服を脱がすと、そんなのがどうでもいいくらいの衝撃が走った。
「布オムツ……だと……?」
「汚れ物は洗濯係にお願いします」
手を汚しながら作業する俺の目の奥では、何度も元の世界の紙オムツのCMが流れた。何が悲しくて布オムツなんて前時代の遺物を……。
「お疲れ様でした」
オムツを替えた後ぐずりまくるリーチェを抱っこしながら、死んだ目で側用人を見送る俺。お前ら、臭い部屋に居たくないだけだろ。
しかし、臭いになれた後は部屋の豪勢さが気になる。中世ヨーロッパ風か? どこもかしこも金がかかってて見ごたえがあるな。どれ、リーチェを下ろして見物を……。
「ア――――!!!」
「何だよ!?」
どうやら下ろされるのが嫌だったらしい、くっ、俺の貴重な時間を……! まあ仕方ないから抱っこしたまま部屋をぶらぶらする。
「ア――!」
「今度は何だよ!? あ、出したから食事だな? 食事係――!」
ミルクを飲ませゲップさせる。よし、今度は部屋の外を……!
「ア――!」
「……もっこりしやがって」
「ア――!」
「……無限ループって怖くね?」
夜になり、ぐったりした俺の横ですやすや眠るリーチェ。こんなのが……これから毎日。元の世界にいた頃は毎日学校の繰り返しでつまんねって思ってたが、少なくとも自分の時間はあったのに。……かーちゃんもこんな風にして俺を育てたのかな……。二度と戻れないか……。
「ア――――!!!」
「今度は何だっつーんだ!」
しかし今度はミルクもオムツも違った。こ、これは……夜泣きってやつか?
「あー、あー……!」
「いいかげんにしろよ、元はと言えばお前が産まれたせいで、俺の人生めちゃくちゃに……!」
「ふえ、ふえ……」
「……」
意味も分からず泣き続けるリーチェ。俺は最後の愚痴を言ったあと、リーチェを抱っこして一晩中あやし続けた。許したわけじゃない。ただ、お袋もきっとこうやっただろうから。
「そなた、ここに居るのはさぞ不本意でしょう」
ある日、王妃様に呼び出された。人払いもされており、王様もいない。そんな状況で何を言うんだこの人。
「ハハ。そんな事は、ないですよ。可愛いお子さんデス。大体、俺がここにいるのは魔法使いが」
「お孫さんのね」
俺の人生はこれで終了なのか。
「ベアトリーチェはそなたがここに来る際、しがみついて離れなかったそうですね」
ああ。その通りだ。使者の呼び出しを受けて部屋を後にしようとすると、わんわん泣いて引きとめようとしたのだ。部屋から出て行くと消えるとでも思ってるのかな。もう三つだっていうのに。異世界の人間だと吹き込んだやつ覚えてろ。
「とても、感情豊かで情の厚いご息女です」
「ハルト、そなたの功績ですよ」
まがい物と責めたりする様子はないようだが、一体?
「ベアトリーチェがそなたを慕い、そなたもまたベアトリーチェを慕っている。これほど乳母に相応しい条件はありません」
「王妃様……」
「娘を頼みますよ。……コホッ」
「王妃様、どこか具合でも悪いのでは」
「何でもありません。くれぐれも、頼みますよ……」
三日後、王妃様が、ベアトリーチェの母が崩御した。その時はこれほど悲しいことはないと思ったが、生きるとは世知辛い事だ。喪が明けた途端、王は新しい側室を迎えた。出自に疑わしいところがあるその女は、異例の速さで正妃になった。
それから、俺の周りからは波が引くように人が、使用人が減っていった。時勢ってやつだな。今ではリーチェの食事は俺が作っているし、掃除洗濯も俺。一国の王女にこの扱いはどうよと思うが、王はそれほどあの奥さんが怖いらしい。ケッ。あのバアサン、うちの子がガチで可愛いからって。それにしても白雪姫やシンデレラみたいな継子いじめって割とある事なんだなー。
「ハルトー。一緒に遊ぼうよー」
「今から掃除だ。お前は本読め、勉強しろ」
「勉強なんて何の役に立つのかわかんない」
「いいからしろ! 俺は家事するのが役目なんだ!」
ほぼ両親がいないといっていい境遇だからって、子供に不自由はさせん! 少しでも色んなこと知って、やがて興味を持つ事を覚えて、そして手に職もってくれよ。
「ハルトー、暑いねー」
「猛暑だからな。しかしその格好は……」
午後の勉強時間……もうしなくていいんだけどよ。十三になったリーチェは耐え難い暑さで薄衣一枚になっている。この薄衣っていうのが、文字通り薄くて軽いんだが、シースルー。
「ねえハルト、私、成長したと思わない?」
くねくねしながら聞いてくるリーチェ。何だ? 城下町で流行っているのか? 俺は知っているぞ。時々抜け出して遊んでるの。
「身長は亡き王妃様似でそこそこあるな。だが乳製品の好き嫌いのツケが出てるぞ。見事にまな板に梅干で……」
「サイテー!!」
思春期なのかな。どうもこの頃考えてることが分からん。
「大体牛乳なんて赤ん坊のとき散々飲んだからいいじゃない! すぐお腹ゆるくなるし大嫌い!」
「継続が大事なんだよ継続が。腹巻外すな。お、風が出てきたな。ほら、羽織れ」
用意してあったカーディガンを羽織らせる。まったく、まさかよそではこんな格好してないだろうな。もう宮廷は俺もリーチェも見限ってるからとは言っても……。あのバアサンぼこぼこ産んだからな。おかげで後見もなかった亡き正妃様の遺児なんて、もう空気も同然だ。
この国がそこそこの大国だったから、リーチェの将来はどっか他国の王妃かなーなんて思ってたが、人数間に合ってるし、家臣に降嫁かも分からんな。……いや日本みたいな王族じゃないから、その辺の一般人以下のやつに強制的に下賜、という名の障害除きなんてことも……。最近これ関係で頭が痛いぜ。
「ハルト、私、図書館を作りたいの」
十六になったリーチェは突然そんな事を言い出した。
「ハルトの世界では民が自由に本を借りられるのでしょう? 私、下町に行った時から考えてたの。もっと学べる施設は出来ないのかって」
「って言ってもな、もともと本が少ない世の中で、まともな本の宝庫である王室の本は持ち出し厳禁だし」
「私覚えてるよ?」
「んあ?」
「全部覚えてるよ? 棚の番号言ってくれたら、そらで内容言える」
うちの子天才じゃね? あそこの本、軽く千冊、俺が入れないところ含めたら万冊あるのに。お前、こんな風に産んでくれた王妃様に感謝しろよ。それにしても。
「お金の問題がな……書き写すにしても……」
「ハルトが手伝ってくれたら何とかなるよ」
「何か方法があるのか?」
「結婚して。それなら結婚費用っていう名の手切れ金が出るから」
「誰と?」
「ハルトと!」
「あーそっか。その方法なら向こうさんも二人同時に追い出せるな……」
「……」
いつの間にか娘が成長していて父さん嬉しい。なんたって青春捧げた子供だし。
「あーでも、他に結婚したい相手いないの? 別に違う人間でも、俺は付き人として付いて行けばいいんだし。あ、新婚家庭の邪魔か……」
「結婚したい人? ……贅沢言わないから、ハルトみたいな人がいい」
世のお父さん泣くぞ。泣いちゃうぞ!
「はははそうか。けどな、もっと欲張ってもいんだぞ?」
「じゃあハルトがいい。ハルトと結婚したいの」
じーっと見つめる目は真剣そのものだ。さすがの俺も意図に気づく。しかし、これには避けては通れない問題が存在するのだ。
「落ち着いて、聞くんだ」
「なに?」
「お前じゃ起たないから無理」
すぐさま盛大に殴られたけど、俺悪くなくね? 赤ちゃんの時から面倒見てた人間に欲情できたらぶっちゃけ怖くね?
その後、無事に図書館は完成。ある男女が格安で貸し出して、毎日盛況。のちに国の識字率が上がったという。そこの夫婦は運営の傍ら、今日も子供達に絵本を読み聞かせている。