四匹目
「君と合体正体不明の〜♪」
なんとなく気分がホクホクしている俺は、今ひとつ人気がないアニソンを口ずさみながら廊下を歩いています。
「ショータ……」
あっ、すれ違った人に笑われた。恥ずかしい!
「……ふふふ。何を恥ずかしがっているんだいヒロシェ君」
「あっ……ちわーす」
声の方に顔を向けると、黒い羽根のトンボが窓ガラスに張り付いていました。
……何してんの?
「トンボさんは何してるんですか?」
「僕かい? 僕は……」
トンボは窓ガラスに頭をこすりつけながら、
「外に出られない」
「…………」
複眼でいろいろ見えるのはいいですが、肝心のおつむが少しばかり足りていないようです。
このまま放置するのもアレなので俺はトンボを掴みました。
「な、なにするだー!?」
「いや……逃がしてあげるんですよ」
窓を開くと、グラウンドから昇ってきた熱気が一気に廊下の空気を燃やします。
「さぁこれで飛べますよ」
「マジかい? ……こりゃあ助かったよ」
俺が指を離すとトンボはその羽根を力強く羽ばたかせ、窓から空に飛び立っていきました。
トンボよ。
その大いなる翼に希望を乗せて、どこまでも高く舞い上がれ。
その漆黒の翼で空を切り裂け。
……あれ?
なんか戻ってきたよ?
「あのさぁヒロシェ君」
「どうしたんですか?」
「君すごい音痴だからもっと歌っていいと思うよ! 聞いてるこっちが楽しくなるから!」
トンボはそう言って雲一つない空に消えていきました。
前言撤回。
トンボ落ちちまえ!
お前のヒットが見たーいー見たーいー見たーいー。
打ってー打て打て○ー×、お前が打たなきゃ誰が打つ?
はい。野球応援です。
応援団やチアガールにお茶を配ったり冷たいおしぼりを提供する役に任命された俺は、ただいまトイレで水くみ中でございます。
……パシリとか言うな。
「いや〜精がでるねぇ。トイレだけに」
「普通に使用したらトイレで精はでません。てか何トイレでいかがわしい事するのが当たり前みたいに言ってるんですか」
俺が破廉恥な発言にツッコミをすると、そこにはなんかカナブン的な青銅色をした虫がバケツに体をつっこんでいました。ツッコミだけに。
「あぁー! 何飲み水用の水に浸かってんですか!」
「暑かったんだよ。今日の最高気温やばいぞ?」
「知りませんよ! ……あーあくみ直しだ」
「大変だねぇ」
「あんたの所為だよ!」
「精だけにね」
イラッときたので水ごと便器の中に流し込んでやりました。
「うわぁぁぁぁぁ」
ざまぁみろ。
「トイレに流されるなんて勉強になるぜ。便器だけ……」
俺は便器の蓋を閉じました。これ以上雑音は聞きたくないですからね。
「さーてと、くみ直しだ!」
ぷーん。
ぷちっ。
「……こっ、こんばんわヒロシェ!」
「おぉ久しぶり」
脱衣所で服を脱いでいたら後ろから声がかかりました。
蜘蛛さんだー。かわゆい。
「べっ別にあんたのために害虫を食べてあげてるわけじゃないんだからねっ」
「そっ、そうなんだー」
「それに! あんたの自転車に蜘蛛の巣を張ってるのも、特に深い理由とかは無いんだからっ。別にあんたに家から出て行って欲しくないとかそんな事考えてないんだからねっ!」
……見事なツンデレですねぇ。
「それじゃあ私はもう行くからねっ」
「おい、ちょっと待てよ」
「……なに」
「ありがとう」
「え?」
「俺のためにゴキブリとか食べてくれてありがとう。すげー助かるよ」
「……何言ってんのよ! あんたのためじゃないって言ったでしょ!」
蜘蛛は照れたのか、急いで俺の前から消えていきました。
大きな雲が広がる夏の空。
その空に黒き羽根を羽ばたかせ、悠々と空中を散歩するトンボ。
子供の頃、俺はそんなトンボを追いかけて夏の世界を裸足で走り回っていた。
季節が巡り、俺は昔に比べ少しは賢くなったし、体も大きくなった。
だけど、どんな事にも一生懸命に取り組む少年の心を失った。
見るもの全てが美しく見える眼は汚れてしまった。
もう俺は裸足で走り回ることはないだろう。トンボも追いかけない。
だけど。
だから、変わらないでくれ。
俺が汗を流し心を燃やした夏だけは。
裸足で追いかけ回した虫達だけは。
ずっと変わらないで欲しい。