第二十二話 泠煌と雷太、二人の想い――
神奈川県南西部にある県内最大の湖、芦ノ湖――。
この領域には明確に位相のズレた異界が存在しており、そこに【九頭龍龍宮殿】は建てられている。
そこは、かの播磨法師陰陽師衆・蘆屋一族の当主顧問を務め、蘆屋道満の使鬼としての役割を継ぐ【九頭龍大明神】、または【九頭龍権現】として信仰を受ける【青帝青龍王】――、現在は【毒水悪左衛門】と名乗る大龍神が住まう場所であった。
かの大龍神は――、芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前、湖に棲んで人々に害を与えていた毒龍であったとされ、箱根大神から霊力を授かった万巻上人が湖中に石壇を築いて調伏の祈祷を行ったところ、毒龍は姿を改め、宝珠、錫杖、水瓶を捧げて帰依したとされている。そして、それ以降は、芦ノ湖周辺だけではなく、地方一帯に善行を行ったとされる善神として人間たちからも信仰対象となったのである。
彼は、その元をたどれば、千葉の鹿野山麓の鬼泪山に住まわっていた九頭龍神【阿久留王】と繋がっており、そこから更にたどれば【八岐大蛇】にまで繋がっている。若い龍神であった頃の彼は、その由緒の正しさと権能の強さからそれに驕るだけでなく、人間側が人身御供として差し出してきた娘をすべからく妻にしては遊び呆けていたがために、有らぬ悪評までたって、のちに万巻上人よりお叱りを受ける事になったというのが伝承の真相である。若気の至りを改めた彼は、自身への悪評をあえて受け入れるとともに、それ以降も自らを決して絶対的善神であると奢らぬように、【善として驕る心を戒めるための悪】を掲げるようになった。
蒼鱗の龍頭にして、【悪】という漢字を各所に縫い付けた着物と扇を持つ老人。――それが現在の【毒水悪左衛門】その人の姿である。
「……お久しぶりでございます悪左衛門様」
「ふふふ……、そのようにかしこまらずとも良いですよ陸離娘々殿――、おっと今は暉燐教主様でしたか?」
宮殿の座敷にて、深く頭を下げる泠煌に、穏やかな笑顔で毒水悪左衛門は言葉を返した。
「……ふふふ、あの小さな娘が、仙人の頂点たる三大仙境の洞主になるとは――、なんとも好ましく嬉しい限りです」
「――いえ、私など――、そもそも悪左衛門様の御息女である【紅鱗龍仙玉女】様の後押しがあってのことで……」
その泠煌の言葉に嬉しそうに頷くと、毒水悪左衛門は目を瞑って答えを返した。
「ふむ……、あの子は今も良くやっていますか?」
「はい……、今は表舞台へは出ず裏方として、私の至らぬところを、補ってくれておりまする……」
その言葉に満足そうに頷いて。
「あの子は、懸命な判断を行ったと思ってますよ」
「――無論、そう成るよう私自身も務めております」
――毒水悪左衛門はにこやかに笑って言う。
「若気の至りで……、多くの娘を持ちましたが、そのうちの三人が仙道へと進んでおります。もし、何かあれば他の二人にも協力を頼むとよいでしょう」
「……ありがとうございます」
そう言って泠煌は再び頭を下げる。毒水悪左衛門はその様子を満足そうに見てから――、そのとなりに控える大男・雷太へと目を向けた。
「ふむ……そちらも、大きくなったものです」
「え……、あ、はい……」
その言葉に慌てて頭を下げる雷太。
「――暉燐教主様、彼には例の話は――」
「……ええ、すでに話しております」
「なるほど……、すでに彼も受け入れている……と」
そういう泠煌と毒水悪左衛門のやり取りに、頭を掻いて苦笑いする雷太。
泠煌は遠くを眺めるような瞳で過去を思い出しながら言う。
「……あの話を知ってから。雷太もかなりショックであったようで、一時は反抗期のようにもなっておりましたが……」
「――まあ、でしょうな……」
「全ては私の自分勝手による身から出た錆故に……、正しく成長してくれた事には、雷太に最大の感謝をせねばとも想っております」
その泠煌の言葉に、雷太は神剣な顔で答える。
「教主様……、俺の方こそ――、心の内を理解せず、感謝できなかったかつてを恥じています! 教主様への感謝は言葉で言い尽くせません」
「……雷太」
その二人の様子を満足そうに見つめる毒水悪左衛門は、深く頷いてから言った。
「ふふふ……、仲良き事は美しきかな。お互いに感謝の心を持つことは良いことです」
「「……あ、はい」」
泠煌と雷太は少し頬を赤くしながら頭を下げた。
「では、お二人共……、今夜はこの宮殿に泊まっていくとよろしいでしょう。……無論、酒宴も用意いたしますよ?」
そうにこやかに話す毒水悪左衛門に、二人は一瞬顔を見合わせて嬉しそうに頷いた。
◆◇◆
ここ【九頭龍龍宮殿】は水底にある水底宮殿である、そのバルコニーから見えるのは水底の魚や海藻ばかりであり、空の月までは見ることが出来ない。
雷太はそんなバルコニーにある椅子に座って一人酒を飲んでいた。
「うお~~い、雷太……」
そこに赤い顔で酔っ払った様子の泠煌がやってきて、――そして雷太の膝の上に座ったのである。
「……教主様――、その姿でそのような事をされると……」
「なんじゃ? この姿では不満かのぅ? やはり雷太は……、幼いわしのほうが好みか?」
そう言って笑う泠煌は、現在美しい大人の女性の姿をしている。――いつもの【本来の姿】では、酒を飲む時に色々言われることがあるため、酒宴の際にはこのように大人の姿でいるのが通例であり、そのあまりに妖艶な姿は酒気を帯びて更に泠煌を美しくしていた。
――雷太は苦笑いで答える。
「……あのですね。俺は――」
「なんじゃ? 雷太――」
「……。まあいつもの姿も愛らしくて最高ではありますが……、大人の教主様も無論、最高ですとも……」
その言葉に少し頬を膨らませて泠煌は言う。
「……雷太――、いつもはそのように褒めぬくせに。どうせ酒で覚えておらぬからと――、ここぞとばかりに嬉しいことばかり言いおって……」
「ははは……すみません」
泠煌はその雷太の頭にすがりつくと、その大きくなった胸に雷太の頭を埋めさせた。
「……ちょ、教主様?!」
「雷太……、すまぬ」
そう静かに言う泠煌に雷太は一瞬驚いた顔をする。
「……わしが、正しく想いを伝えなかったばかりに――、お前に辛い想いをさせてしまった」
「いいえ……、教主様、理解していなかったのは俺です――」
雷太は、泠煌が、昼間の毒水悪左衛門との会話で、かつての事を思い出してしまったのだろうと理解した。
だからこそ、雷太は頭を泠煌に抱かれながらかつてを思い出して、――そして苦笑いする。
「……俺は……、俺はただ教主様の師匠の――、その転生体としてしか想われていない……。義母さんは俺のことなんか、師匠の代用品としてしか見ていない、そんなふうにかつての俺は勘違いしていた……」
「……うう、すまぬ――。雷太ぁ」
「でも……違います。違ったのです……」
そのまま雷太は泠煌を抱きしめた。
「本当は――、教主様ほどの方なら、そのままの師匠を生かすことも出来た。でも――」
「……ああ、そうじゃ。わしはあえて師匠の過去のすべてを消す方法をとった」
――それは何故か?
「……師匠は、明確に壊れておった。初めから壊れておったのやも知れぬ」
「ただ自らの命を削って正義を成す――、弱者を救って自らを顧みない、救世しか出来ない機械……」
「――師匠がわしを最後まで受け入れなかったのも、師匠は自分がそれしか出来ず――、いつか必ずわしを悲しませることがわかっておったから」
雷太は神剣な表情で言葉を返す。
「……教主様の師匠は――、鵬雲道人様は……、そのために常に天命数も命も――、そして自らの幸せの全てを削って生きていた――、だから」
「見ていられなかった――、無論、見ていられなかったとも……。そして、その生き方を修正することが出来ぬ事もわしは理解していた」
――守るべきものを守れずに死ぬ運命を偶然救われた鵬雲道人は、その千年以上の生涯のすべてを【弱者救済】だけに捧げてきた。そして――、それ以外を顧みなかった。
その生き方はまさに【愚か】でしかなかったが、――ある意味尊い話でもあった。
彼の生涯で多くの者が救われたのは事実であり――、でも、だからこそ泠煌は悲しかったのだ。
「……誰も、そう誰も師匠を救うことは出来なかった。――救われて喜ぶ人々を見て楽しげではあったが……、それ以上の幸福を、師匠は生涯において得ることはなかったのじゃ」
「だから……、今度こそ幸せな生涯になるように――」
「……そう、全てを消した。師匠を縛る全てを――。無論、それは残酷な話じゃが――、師匠もまた受け入れてくれた」
――こうして雷夫は雷太に転生した。
全ての切っ掛けである過去を亡くして――、次の人生こそ自分の幸福を得るために生きられるように。
それはまさしく、師匠を生かすための術式ではなく――、新しい男として生まれ直すための【転生術】。
「――雷太よ、お前に対して、わしの心のうちに、少なくない割合で師匠があるのは事実じゃ……でも」
「……わかってますよ。物心つく前から、教主様は俺を大事に――、そして愛情を込めて育ててくれた。――それが偽りだなんて俺は思いません」
「お前の名は……、師の魂を継承したがゆえに【雷】を残したが――、雷太は雷太――、決して雷夫ではない」
雷太は優しく微笑んで、そして泠煌をしっかり抱きしめる。
「……そのとおりです。結局あなたの師匠は、教主様を受け入れませんでしたが、俺は違います――。そんな馬鹿な真似は絶対にしない……」
「雷太……」
「――教主様が俺の幸せを望むのと同様に――、俺は教主様を幸せにしてみせます! だから……、俺は前世の自分になど負けるつもりはありません!」
泠煌は少し雷太から離れてその目を見つめる。そこには、決意の籠もった強い瞳があった。
「――俺は、あなたの師匠を超える――。そして、そのうえで教主様の全てを貰い受けます。――他の誰でもない俺――、雷太が……」
「雷太……」
――雷太と泠煌は見つめう。
「お酒の席故に――、おそらく覚えてはいないでしょうが、だからこそ素では恥ずかしいのでこの場で言います……」
「……む?」
「いつか俺が、満足が行く男になれたら――、貴方を娶らせていただきます」
それはまさしく決意の表明。――それを聞いて泠煌は、一筋の涙をこぼして――、そして、雷太にしがみついて寝息を立て始めた。
それを雷太の優しい瞳が、いつまでも見守っていたのである。
◆◇◆
【九頭龍龍宮殿】に用意された一室で泠煌は静かな寝息を立てている。そこにふと濃く暗い闇が現れてまとわりついた。
「ん……」
寝苦しくなって泠煌は寝返りを打つ――。そして――。
「……」
しばらく後に、その寝息が失われて――、呼吸すらしないただの屍のようになった。
そうした異変に気づいた者は、――その時は誰もいなかった。
しばらく後に、――寝室から、愛する師匠の寝息が聞こえないことに異変を感じた雷太だけが気付くことになった。




